Month: 3月 2013

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高校時代の挫折体験から数十年がたちました。当時、バスケットボールは私にとって非常に大切なことでした。中学時代から代表選手で、何百時間も練習してきました。ところが高校最後の年、私は代表選手に選ばれなかったのです。失意のどん底に突き落とされました。

私は心乱れたまま、記録係としてチームに同行しました。、そして、州大会を戦う仲間が、リバウンドボールを取ったりシュートを入れたりするのを記録しました。正直なところ、チームメートたちが私をどんな目で見ているのか、考える余裕すらありませんでした。日々をこなすだけで、精神的に精一杯だったのです。

そういう状況だったので、当時の同級生たちが弟に言ったことを聞いて驚きました。彼らは、「クリスチャンは違う」、「あれがキリストの姿なんだね」と言っていたそうです。私は、自分の状態を覚えていないので、「私を見習ってください」と言うつもりはありません。むしろ、自分が意識していようがいまいが、私たちは人に見られている、と言いたいのです。

パウロはテトス3章1~8節で、神が造り変えてくださる人生がどのようなものなのか、説明しました。それは、イエスを通して新生し、注がれた聖霊によって更新された人生です。その新生と更新の結果、敬意、従順、親切という品性が、その人に与えられました。

私たちが聖霊に導かれた人生を生きるなら、神は私たちを通して、ご自分を現されます。

すがすがしい率直さ

母の良いところはたくさんありますが、率直なところは特に好きです。母の意見を聞こうと電話をすると、彼女はこう言います。「本当に私の意見を聞きたいのでないなら、聞かないでちょうだいね。あなたに気をつかって、色よいことを言ったりしませんよ。本当に思っていることしか言いませんからね。」

世の中には、保身のために言葉をあいまいにする人が多いので、彼女の率直さは、すがすがしい気分にしてくれます。率直さはまた、真の友情の特質です。真の友は、真実を優しい態度で告げてくれます。たとえそれが、耳障りなことでもです。箴言も「…愛する者が傷つけるほうが真実である」と語っています(箴27:6)。

真実を優しく告げてくださることは、イエスが最高の友であるひとつの理由です。サマリヤの女が井戸端でイエスに会いました。イエスは、どちらでもよいのに意見が対立している小事にはかかわらず、彼女の心の深い部分にある一番大切なことを取り上げられました。イエスは、神は霊ですからと語って信仰のチャレンジを与えられました。また、この女性は、人生の夢が破れて深い失望の中にいましたが、イエスは、そのことについても優しく語りかけられました(ヨハ4:7-26)。

神とともに歩むとき、神が聖書のみことばを通して、私たちの本音に率直に語りかけてくださいますように。悲しみや苦しみの中にいるときも、神と向き合い、神の恵みによって助けられますように。

良い人

ジェラルド・スティーブンスの告別式で、「ジェリーは良い人でした…妻に誠実を尽くし、良き父、良き祖父でした。軍人として国に仕え、良き友でもありました」と、牧師は語りました。ところがそれに続けて、「ジェリーの善良な生き方や良い行いは、彼が天国に行くことを保証するものではありません」と言ったのです。もしジェリーがこの場にいたなら、誰よりもはっきりとそのことを語るだろう、とも言いました。

ジェリーは、聖書の「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ロマ3:23)や「罪から来る報酬は死です」(6:23)というみことばを信じていました。人生の終着点である永遠の居場所を決めるのは、自分が良い人であったか否かではなく、イエスが贖罪のために身代わりに死んでくださったという事実です。ジェリーは、各個人がこの神の無償の贈り物、つまり「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」(ロマ6:23)をいただかなくてはならない、と信じていました。

ジェリーは良い人でしたが、完璧ではありませんでした。私たちも同じです。私たちが救われるのは、ただ神の恵みによるのであって、人間の努力とは無関係です。それは「神からの賜物」(エペ2:8)です。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します(Ⅱコリ9:15)

大いなることを期待せよ

ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。

聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。

歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。