Month: 10月 2017

ルースの物語

自分のことを話すとき、ルースは涙を浮かべます。80代半ばで外出もままならならず、教会でも目立つ存在ではありません。どこかに行くには誰かに送迎してもらわなくてはなりませんし、ひとり暮らしなので、他人に大きな影響を与える人とはいえません。

謎を解く

スヌーピーの作者チャールズ・シュルツ氏の洞察力に富んだユーモアが大好きです。特に好きな作品は、教会の青年たちについてで、登場人物は「旧約聖書の謎を解く一歩を踏み出したよ。それを読み始めたんだ!」と聖書を片手に言うのです。(『Teen-Ager Is Not a Disease』より)

恵みを数えて

私たち夫婦は真剣に離婚を考えたことがありました。しかし、人生を完全にキリストに明け渡すとふたりで決め、やり直そうと誓いました。私たちは賢明な助言を求め、各々が聖霊によって変えられ、夫婦としても作り変えられるよう求めました。神は、健全なコミュニケーションを取る力をつけてくださいました。何が起ころうとも、神を愛し信頼することを教えてくださり、夫婦が愛し信頼し合うことについても学ばせてくださいました。

神に根差す

新居に移った友人は藤を隣家との塀際に植え、5年後には紫色の花でいっぱいになることを楽しみにしました。そして20年間、この花を楽しみつつ、枝を切り込み、熱心に世話をしてきました。その藤の木が突然枯れてしまいました。隣家の住人が庭に除草剤をまいたことが原因だったようです。土の中に広がった薬剤の影響で、きっと藤も根から完全に枯れてしまったのだ、と友人は思いました。ところが驚いたことに、翌年、彼らは藤の芽が数本、土から吹き出ているのを発見したのです。

泣くべきとき

聖書のみことば:ヨハネ 11:1-7, 32-36

イエスは涙を流された。—ヨハネ11:35

父リチャード・デ・ハーンは、長い年月、衰弱性の病気と苦闘しました。私たちは、父を召してください、と神に祈りました。その父の最期を、ベッドの傍らにひざまずきながら看取ったとき、こらえていた涙がどっと溢れ、滝のように流れ落ちました。 私たち兄弟と母は抱き合い祈りました。父の最期に、心が押しつぶされそうでした。

この出来事は、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)という聖書のみことばの深い意味を、 私に悟らせてくれました。神の御子が涙を流されたのです。イエスは、天国が現実にある場所だとご存知でした。ご自身は、よみがえりの唯一の希望でした。しかし、涙されたのです。マリヤやマルタ、ラザロを心から愛しておられたので、深く悲しまれたのでしょう(33節)。彼らの心痛を、自分のことのように感じておられました。

大切な人が亡くなると、「なぜ」と思います。長い間、病気に苦しんだ後に死が訪れると、なぜ神は、もっと早く苦しみから解放してくださらなかったのだろうか、と思います。神は遠くにおられて、私たちの悲しみに気づかれないのだろうか、と不安になります。神の英知と神の正義に疑問を抱くかもしれません。そんなとき、「イエスは涙を流された」というみことばを読むのです。神は、私たちの苦悩に深く心を痛めておられます。

人生の苦しみが襲って来たとき、この聖書のみことばを思い出してください。イエスも涙を流されたのです。

神は心配してくださらないのかと疑うとき、主イエスの涙を思い出そう。

死の良い部分

聖書のみことば:ヨハネ17:20-26

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。—ヨハネ17:24

イエスを信じることが天国への唯一の道です。 日曜学校の先生はそのことを教えるために、子どもたちにこんな質問をしました。「先生が持ち物を全部売って、教会に献金すれば天国へ行けますか。」子どもたちは「いいえ」と答えました。「では、教会でたくさん奉仕をすればどうですか。」答えはまた「いいえ」です。「もし、家族を大切にして、動物を可愛がって、みんなにキャンディーをあげたらどうでしょう。」全員そろって「いいえ」と答えました。そこで先生はたずねました。「では、どうすれば天国に行けるんですか。」ひとりの男の子が大声で答えました。「先生、死ななくちゃ、天国へ行けないよ。」

これは、先生が期待していたものではありませんが、正しい答えです。聖書は、血肉のからだは神の国を相続できないと教えています(Ⅰコリ15:50-52)。私たちが生きている間にイエスが再臨されないかぎり、死を経験せずに天国へ行くことはできません。

英国の説教者チャールズ・スポルジョンは説教の中で、一人ひとりのクリスチャンが死んだとき、イエスがヨハネの福音書17章24節で祈った祈りがかなえられる、と語っています。人は、死を迎えると肉体を離れ、キリストの栄光を見るために主のもとへ行きます。キリストを信じる者にとって、何という慰めでしょう。これが、死の良い部分です。あなたはそう確信していますか。

クリスチャンは死んだときに生き始める。

移転

聖書のみことば:ピリピ 1:12-26

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。—ピリピ1:21

ニューヨーク州のある銀行が、 新しいビルに移転した別の銀行に花輪を届けさせました。ところが花屋のミスで、「心からお悔やみ申し上げます」と書かれたカードが添えられてしまいました。

花屋は非常に恐縮して平謝りに謝りましたが、それでは終わらないことに気がつきました。 銀行の花輪に添えられるはずのカードが、葬式の花束に付いていってしまったのです。そこには、こう書かれていました。「祝 移転!」

クリスチャンなら、これはぴったりくるでしょう。キリストを信じて死ねば、すばらしい所に移ることができるからです。死んだあと、キリストとともにいることができます。そして、地上の悲しみや苦しみを味わうことは永遠にありません。パウロは、その生涯の終わり近くに、地上にとどまるよりキリストとともにいる方が「はるかにまさって」いると言いました(ピリピ 1:23)。

死別は、確かに辛い体験です。しかし、キリストを信じていれば、希望のない人たちのように悲しむ必要はありません。目は涙でいっぱいでも、心から喜ぶことができます。なぜなら、その愛する人は天国の新しい家に引っ越したからです。

クリスチャンが死んだとき(もし、その人と話ができるなら)、「祝 移転!」と言うのは、ふさわしいことでしょう。

杭を深くいれすぎてはいけない。朝になったら、出発するのだから。

神の臨在の中で

聖書のみことば:Ⅰコリント15:50-58

死は勝利にのまれた—Ⅰコリント15:54

礼拝の参加者たちは「おどろくばかりの」の4番を歌っていましたが、私は一緒に歌えませんでした。その代わり、このジョン・ニュートンが作った歌詞を見つめて涙していました。「御国(みくに)につく朝、いよよ高くめぐみの御神(みかみ)を称えまつらん。」

17歳の娘メリッサはもうこの御国にいるのだ、という思いで、私の心はいっぱいでした。彼女は、ほんの数ヶ月前まで高校最後の年を楽しみにしていましたが、今はもう天国に行ってしまい、私たちが話したり歌ったりしかできない「永遠」を体験しています。

娘は2002年の春、交通事故で亡くなりました。それからというもの、天国は私たち家族にとって新しい意味を持っています。私たちの自慢の娘メリッサは、イエス・キリストを自らの救い主だと信じていましたので、今は天国にいます。パウロが言っているように「死は勝利にのまれ」(Ⅰコリ15:54)、天国は私たちにより身近なものになりました。神に祈るときは、その御前に私の娘がいると感じながらこの方と話すことができます。

天国の存在は、聖書が語るもっとも素晴らしい現実です。私たちの愛する人たちが、永遠に偉大な神を賛美しながら暮らしている場所です。それはすべて、驚くばかりのめぐみだからです。

クリスチャンは、最期でも「さようなら」とは言わない。

生死に関わる問題

聖書のみことば:詩篇90:1-10

私たちの齢は七十年。……それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。—詩篇90:10

老化をつかさどる遺伝子を変化させることで、今世紀末までには人間の平均寿命は百歳まで伸ばせる、と科学者は言います。そうなると、詩篇90篇10節が語る70年の寿命をはるかに越えます。しかし、どんなに長生きしても、人生の最期がおとずれ、「それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」(10 節)と言わざるを得ないでしょう。

詩篇90篇を書いたモーセは、120 歳まで生きましたが、罪がこの世にもたらした死を免れることはできない、と分っていました。しかし、悲観的ではありませんでした。むしろ「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」と願いました(12 節)。神の恵みで心を満足させ、喜び楽しめるようにと願いました(14 節)。また、次の世代が神の栄光を見ることができるように、と願いました(16 節)。こうして、モーセは死の現実と向かい合いました。

アダムとエバ以来、人はみな、罪の影響に苦しみ確実に死を迎えます(ロマ 6:23)。しかし私たちは、それでも喜びと望みを持って生きていくことができます。私たちの罪のために神のひとり子が死んでくださったからです。イエスは墓からよみがえり、 死に勝利しました。ですから、イエスを自らの救い主であり人生の主だと心にお迎えするなら、私たちも神の赦しをいただいて、主イエスと天国で永遠に過ごすことを心待ちにできます。あなたはこの生死に関わる問題に、もう決断をくだしましたか。

死ぬ準備ができるまでは、生きる用意ができない。