友人のアーチィが休暇から戻ると、隣の家の人が庭に柵を立てていました。その柵はアーチィの庭に入り込んでいたので移動するよう交渉しました。しかし交渉は難航し、費用の半分を出すと提案しても、聞き入れてくれません。アーチィは隣人を訴えることもできましたが、結局、甘んじて受け入れました。神の寛大さを示すためです。アーチィは弱虫ではありません。強い人ですが、主にあって寛大であることを選んだのです。
この件で、アブラハムとロトを思い出しました。聖書は語ります。「アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人(不信仰の民)が住んでいた」(創13:7)。両家は別れることとなり、ロトは良い方の土地を選びましたが、結局、全てを失いました。一方、アブラハムは余り物を取り、約束の地を得たのです(12-17節)。
私たちには権利があり、それを主張することもできます。自分のことだけでないなら、なおさらです。頑固に主張すべき時もあります。パウロも議会が法に背いたときは黙っていませんでした(使23:1-3参照)。一方で、権利を行使しないことで、世間の人に徳を示すこともできます。聖書はそれを「柔和」と呼びます。これは、神の支配のもとにある強さで、弱さではありません。
親愛なる主よ、私は自分の権利を守ろうと必死になりがちです。あなたの愛と恵みを示すために、自分の権利を放棄すべきときは、それが分かるように教えてください。
私の生き方は神の姿を描こうとする隣人に影響を与える。