少年時代、父が畑を開墾しているのを見ました。まず、鋤がかき出した大きな岩を運び出し、その後、何度も何度も鋤で土をかきます。すると前より小さな石が表に出て来るので、それを捨てます。この工程を何度も繰り返し、畑を作っていくのです。

恵みの中で成長するのも、似たような過程です。クリスチャンになるとき、大きな罪があらわになったかもしれません。そして、その罪を告白し、神の赦しを受け入れたでしょう。しかし、月日とともに、みことばの理解が深まり、心に浸み込んでいくにつれ、聖霊は別の罪を表出させます。以前は気にならなかったことが、醜い破壊的な罪として明らかにされます。例えば、人との比較、思い上がり、自己憐憫、不平、度量の狭さ、偏見、ねたみ、わがまま等です。

神は各々の罪をあらわにされます。それを捨て去るため、癒すためにそうされます。隠れていた悪い姿勢が暴露されたら、ダビデのように「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を」(詩25:11)と祈りましょう。

自分の罪が明るみになりプライドが傷つくのは辛いものですが、私たちの霊のためには良いことです。これは、神が「罪人に道を教えられる」手段のひとつです。「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自分の道を教え」(8-9節)てくださいます。