Month: 10月 2018

支配されない

ケイトリンは友だちとメキシコ湾に海水浴に行ってサメに襲われました。足を噛まれ、水中に引きずり込まれそうになりましたが、サメの鼻を殴って応戦しました。敵は降参して逃げて行き、100針も縫う大けがをしましたが、殺されずに済みました。

道を選ぶ

コロラド州の美しい秋の山景色の中、馬に乗った若者が、どの道を進むか考えている写真があります。それはロバート・フロストの「歩む者のない道」という詩を思い起させます。詩人は、目の前のふたつの道を思案しています。両方とも好ましい雰囲気ですが、今の地点に戻ることはおそらくないので、どちらかを選ばなければなりません。彼は言います。「森の中に分岐した道があった。私は選んだ人が少なそうに見える道を選び、それは後に、大きな違いをもたらした。」

かぼちゃの中の宝物

娘が生まれてから毎月、写真を撮り、1年間の成長記録をつけました。お気に入りは、地元の農家から買った空洞のかぼちゃの中に楽しそうに座っている写真です。巨大かぼちゃの中に、私の宝物の娘が入っています。かぼちゃは段々しぼんでいきますが、子どもはどんどん成長していきます。

私の本当の顔

過去の自分を恥じる思いが、長い間、人生に悪影響を及ぼしていました。当時の評判を誰かに知られたら…と不安でしたが、主に助けられて、教会のリーダーを自宅に招く勇気が与えられました。私は家中をピカピカに掃除し、ごちそうを準備し、一番良いジーンズとブラウスを着ました。ところが、前庭のスプリンクラーを切ろうとして失敗し、びしょ濡れになりました。

常に受け入れられている

アンジーは勉強についていこうと数年間、頑張りましたが、ついにエリート小学校から「普通の学校」に転校しました。競争の激しいシンガポールでは「良い」学校から明るい将来が広がると考えられているので、これを挫折と捉える人も多いでしょう。両親は落胆し、彼女自身も格下げされたように感じました。ところが間もなく、この9歳の少女は、普通の小学生といっしょにいるとはどういうことかを理解して、こう言いました。「ママ、私、居場所を見つけた。やっと受け入れてもらえたわ。」

ボートを持って来よう

ハリケーン•ハービーは2017年、テキサス州東部に猛烈な雨を降らせ、壊滅的な洪水をもたらし、何千人もの住民が自宅に取り残されました。その際「テキサス海軍」と呼ばれた働きを推進させたのは、多くの一般市民です。彼らは州の他の地域や州外から自分のボートを持って来て、被災者を救助しました。

福音を説明するための4つの方法

*救いのABC

Admit(あなたが罪人であることを認めること)

   「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3:23)。

Believe(キリストを信じること)

     「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使16:31)

Confess(自分の信仰を告白すること)

       「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロマ10:9-10)

*ローマ人の道

ローマ人への手紙3:23<人間の困窮>

  「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」

ローマ人への手紙6:23<罪を犯した罰>

      「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

ローマ人への手紙5:8<神の備え>

 「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ローマ人への手紙10:9-10<人間の応答>

 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

*神があなたに知ってもらいたいと思っておられる4つのこと

1.神がご覧になるあなたの窮状

 イザヤ64:6、エレミア17:9、ヨハネ3:3、ロマ3:10-11、23

2.あなた自身に救う力がないこと

 箴言14:12、ヨハネ14:6、使徒4:12、ガラテヤ2:16、ヤコブ2:10

3.あなたの窮状に対する神の備え

 イザヤ53:6、ヨハネ3:16、IIコリント5:21、Iペテロ3:1

4.あなたの必要を満たしてくれる神の約束

 ヨハネ10:28、ピリピ1:6、ヘブル7:25、ユダ24節

そういうわけですから、......悔い改めて、神に立ち返りなさい。(使3:19)

主イエスを信じなさい。(使16:31)

今日、決意しなさい。(ロマ10:9-10)

*永遠のいのちへの架け橋

私たちはみな罪を犯したので(ロマ3:23)、肉体的には死ぬことが運命づけられているだけでなく(ロマ6:23)、霊的にも死んだ状態であり、神から切り離されています(エペ2:1-4)。

イエスは、十字架上で死なれたとき、私たちの罪をその身に引き受けられ、罪の代償を支払ってくださいました(ロマ4:25; 5:8、Iコリ15:3)。私たちの代わりに苦しまれ、死なれたことによって、イエスは①私たちが神の義となることを成し遂げられ(IIコリ5:21)、②罪人と聖なる神との和解を可能なものとしてくださいました(Iヨハ2:1-2)。

他の人々をキリストへと導く

私は19歳のときに、街頭や刑務所、老人ホームなどの小さな集まりでの伝道を始めました。人の前に立って語るとき、私は何かしら恐怖感を覚え、人々をキリストへ導くのだと考えると、緊張のあまり体がこわばりました。私は聖書の真理を理解し、自分の救いについても確信を持っていたので、なぜそれほどの恐れを感じるのか不思議でした。

後にわかったことですが、私の心配は全く必要のないものでした。最初にある人をキリストへと導く手伝いをしたとき、すべてがスムーズにいきました。自分の考えに頼って生きていた人が、イエス・キリストに信頼を置けるように手助けしただけです。彼の場合、罪について説明する必要もありませんでした。すでに自分が罪人であることを十分に知っており、その罪を神に赦していただいて、自分を変えていただきたいと願っていたからです。ですから、私の役割はほんの小さなものでした。実際、私が手助けをしなくても、彼はきっと神との和解を見いだしていたことでしょう。

  • 基本を知ること

誰かをキリストへの信仰に導くという喜びを味わいたいなら、いくつかの基本的な真理をしっかりと頭に入れておく必要があります。それについては様々な言い方があると思いますが、下記の4つに要約することができるでしょう。

1.すべての人は生まれつき罪人であり、神の前に有罪判決を受けている。

2.すべての人は、 自分の力で自分を救うことはできない。

3.神は愛のうちに、イエス・キリストを通して、罪人たちに救いを与えてくださった。

キリストは、人間の家族の一員となり、罪を犯すことなくこの世の生活を送り、私たちの罪のために、十字架上の死を遂げられた。

4.救いは個人的な事柄であり、救われたいと思っている人が自分で心を決めなければならない。神は、死からの復活をもってイエスの犠牲の死を受け入れてくださった。したがって、自分の罪を認めイエスを信じる人は誰でも、神の子どもとして受け入れられる。

これらの大切なポイントを指し示す聖書の個所は、伝道用トラクトなどによく引用されています。(38~40ページには、それを掲載しています。)これらのトラクトなどを使う前に、まずあなたがこのポイントについてよく理解しておくようにしてください。そうすれば、個人個人の問題に対して臨機応変に対応できるでしょう。

  • アプローチの仕方はケースバイケースで

伝道しようとする相手が、すでに自分が罪人であることを確信していて、自分の力では何もできないことを知り、赦していただいて変わりたいと思っているのであれば、これらのポイントについては省略して、神が罪人のために救いを備えておられること、ただ信仰を通して恵みによって救われることを示すところから始めればいいでしょう。

一方、もし、自分が罪人であり自分を救う力もないということを認めたくない人の場合であれば、3つめ、4つめのポイントである、神からの備えや恵みのみによる救いの栄光については、まだ伝えない方がいいでしょう。また、もし、すべての人が罪に陥っていて、ただイエスによってしか神に到達できないということを受け入れられない人の場合、この4つのポイントから救いについて説明するという方法では、何の成果も得られないでしょう。

つまり、すべての人に同じアプローチが通用するわけではない、ということは明らかです。パウロが牢の看守に対して伝道した方法(使16:27-34)は、ピリポがエチオピヤの宦官に対して行った方法(使8:26-39)とは違いました。

さらに、何を言ってもイエス・キリストを信じようとしない人がいるという事実も、受け止めなければなりません。ペリクスもその妻ドルシラも、アグリッパもフェストも、パウロが熱心に真理を解き明かすのを聞きましたが、皆、信じることを拒みました(使24-26章)。このように、何が何でも信じないという人に巡り合っても、必要以上に攻撃的になることはありません。礼儀正しさを忘れず、そういう人たちの心の中にも神が働き続けてくださることを祈ってください。

自分の真価をはかってもらうために、喜んで神の前に立とう、という人がいたとします。そのような人には、こう言うこともできます。「慈悲よりも正義を...というわけですね。でも私は、正義は欲しくないです。だって私は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することからは、ほど遠いところにいるんですから。隣人をいつも自分のように愛することだってできません。もし自分が十分に善行を行ったかどうかに基づいて裁きを受けるのだったら、私は確実に地獄行きです。でも、キリストにより神が私を憐れんでくださることに、心から感謝しています。あなたもいつか、こう思うようになれるといいですね。」