
使者
ある会議に出席しているとスタッフが「伝言です」とメモをくれました。何だろうと緊張しましたが「甥っ子ができた」と書いてあったので、吉報でした。

すべてが新しい
私は車いじりが好きなので、よく近所の解体屋に出かけます。そこは、過去の自慢のなごりの間を風が音を立てて吹き抜けていくような、わびしい場所です。ねじ曲がったり、用済みになったりした数々の車の間を歩いて、ふと一台に目が留まると、現役時代にはどんな冒険をしたのだろうと思いを馳せたりします。一台一台が過去への入り口であり、語るべき物語があります。逃れられない時の流れと最新モデルに憧れる人々についてです。

神が否と言われるとき
兵役義務に18歳でついたとき、配属先について必死で祈りました。体力が自慢ではなかったので、厳しい戦闘訓練のない部署に行きたかったのです。ところが、聖書を読んでいて「わたしの恵みは、あなたに十分である」(Ⅱコリ12:9)というみことばが飛び込んできました。不安になりましたが、それは間違いでした。神は私の祈りに応えて、大変な所に配属されても助けようと言われたのです。結局、私は装甲歩兵になり、辛いこともありました。しかし、あの経験と訓練は、私を肉体的にも精神的にも鍛え、一人前の大人になる準備をしてくれたと感謝しています。
愛のない町
世界一堕落した無情な町を想像してみてください。人は愛の名のもとに悪事を行い、利己的な野心を満たすために人間関係を利用します。人の生命が奪われることも日常茶飯事です。紀元1世紀のコリントの町は、まさにそういうところでした。コリント人への手紙第一13章の崇高で聖霊に満たされた文面を初めて読んだ人たちは、その町のクリスチャンでした。
堕落したコリントの町と美しい愛の記述は、一見不釣合いです。しかし、これほど適切な組み合わせはありません。コリントの町にあった教会の人々が生き方を改めるためには、本当の愛とは何なのかという原理原則が必要だったからです。
むずかしい社会で生きている人々。
現代人の目から見ても、コリントのクリスチャンは多くの問題に囲まれていました。世間の道徳的な基準は、落ちるばかりでした。一般的な人々の宗教は、ギリシャの愛の女神、アフロダイテ崇拝です。その神殿では、千人もの女性が神殿娼婦として雇われていました。
経済的な発展も誘惑の種です。コリントは、北ギリシャと南ギリシャを結ぶ交通の要所にあり、商業が発展しました。しかし、繁栄が堕落をもたらしました。物質主義と性行為を礼賛する宗教は、快楽を追い求める世相を作りました。
コリントの道徳的堕落は非常に有名になり、ギリシャの人々は、とんでもない不道徳をしたり、酔っぱらって見境のない行動をしたりする人のことを「コリント人のようにふるまう」と言うようになりました。愛についての定義をパウロの手紙から受け取ったコリントの教会の人々は、 このような社会に生きていました。
霊的な意味で虚弱体質の人々。
現代にも通じることですが、コリントのクリスチャンは、不幸なことに、周りの社会に影響されていきました。では、パウロがこの手紙で取り上げたさまざまな問題について考えてみましょう。
- 神の家族である教会の内部分裂(1~3章)
- プライドと霊的高慢(4章)
- 性的乱交(5章)
- 信徒間の訴訟問題(6章)
- 夫婦間の問題(7章)
- 霊的自由の乱用(8~10章)
- 男女の役割の混同(11章)
- 聖餐式の乱用(11章)
- 霊の賜物の誤用(12、14章)
- 基本的教理の軽視(15章)
コリントの教会は多くの問題をかかえていました。その上、使徒パウロのことをよく思っていない人たちもいました。ですから、事態のひどさにもかかわらず、パウロの指導が必要だという認識はありませんでした。この手紙を読んで分かることは、手紙の受取人たちは、自分のことは棚に上げて、他人の欠点に着目してしまう人たちだということです。
霊的な洞察力のない人々。
解決策は何でしょう。キリストに従って生きるとは、聖書の知識を深め、超自然的な霊の力を追求することだけではありません。コリントのクリスチャンは、このことを理解していませんでした。パウロは、彼らが愛の本当の意味を再発見することを願いました。なぜなら、愛の本当の意味を知らなければ、教義を正しく理解し、力強くメッセージを語って伝道し、犠牲的に奉仕をしても、かえって人に疎まれるからです。パウロは、愛なくして善を行うなら、実際にはどういうことになるか、13章1~3節で比喩を使って説明しました。
コリントのクリスチャンに欠けていた洞察力は、すべてのクリスチャンに必要なものです。私たちも、信仰に関する情報や知識の山を築くばかりで、「聖書の心」で生きることを怠っていないでしょうか。私たちの心には聖霊が宿っておられます。しかし、その聖霊が私たちに心を配ってくださるほど、私たちは人のことに心を配っているでしょうか。私たちは、他人の間違いは指摘できても、愛のない自分もまた間違っているという事実に気づかないことがあります。
このような見解は、クリスチャンであることを咎めようとするものではありません。咎めるべきものは自己中心的な生き方です。コリント人への手紙第一13章は、クリスチャンを卑下させるために書かれたのではありません。それは、宗教的な振るまいを身につけようとするばかり、道に迷ってしまった人を導くために書かれました。同時に、人間関係の問題を起こしたり、普段の態度が悪かったりして、世間の不評を買うことがないよう自警しなさいと促しています。クリスチャンの自分勝手な言い争いを見て、世間の人が「キリストも大したものではない。」と思うようなことがあってはいけないからです。
人間は、「この人は私のことを本当に心配してくれている」 と感じなければ、その人のことばに耳を貸さないものです。私たちがそのように相手を思いやって初めて、世間の人は、キリストを信じる私たちの信仰が、意味あるものだと思うでしょう。キリストの愛によって生かされていないなら、
- 伝道は、人を裁くものになる。
- 正しい教理は、律法主義になる。
- 献身は、独善になる。
- 礼拝は、心の通わない儀式になる。
- 聖書の学びは、高慢な知性偏重になる。
- 奉仕は、疲れのともなう義務となる。
愛がなければ
雄弁な語りかけ→うるさい騒音のよう
霊的な洞察力→何の値打ちもない
慈善行為→何の役にも立たない
霊の一新を必要とする人々。
もし、コリント人への手紙第一13章が私たちの霊的な貧しさを指摘しているなら、私たちは周囲の人々にもっと心配りをするべきです。パウロの語ることばが、私たちの自己中心性を示しているなら、私たちは神によって変わるべきです。このみことばが、私たちの心を照らすなら、私たちはその光の中で自分の生き方を吟味し、もっと主に近い人生を歩むべきです。
しかし、この冊子を読むときに心に留めていただきたいことは、神は、アップグレードしなさいと私たちを召しておられるだけではなく、「あなたを心の底から変えてあげよう。」と手を差しのべておられるということです。神は、単なる道徳水準の向上を意図しておられるのではありません。私たちを人間の生まれ持った性質から解放し、私たちが自分では変えることのできない部分に御業を成してくださるのです。
今、私たちに問われていることは、神と神の真理に自分を完全に委ねるか、ということです。もし、私たちが応答するなら、神はコリント人への手紙第一13章に記されているような本当の愛を私たちの中に生み出させてくださいます。
どこに愛を見つけることができますか?
もしあなたが、「どこに本当の愛を見つけることができますか。」と心から尋ねているのなら、良い知らせがあります。あなたは、すでに愛されています。聖書のもっとも有名な一節はこう語ります。
「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
信じる人たちに対して、キリストは神の愛の広さを述べられました。弟子たちに、次のように言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31~33)
人を愛することにはリスクが伴いますが、このように愛されているなら自分の立場は安全だと信じて、リスクを顧みることなく愛することができます。
あなたは、自分を愛してくださるキリストに出会いましたか。このお方と知り合い、このお方の愛を受け入れるために、第一歩を踏み出しましたか。キリストに自分をゆだねる決心をしましたか。聖書は、あなたの罪のためにキリストは十字架で死なれた、と語ります。このことを信じますか。
ここが出発点です。自分の罪を自覚し、キリストが自分の人生にとって必要不可欠だということを理解しましょう。キリストは失われた人を捜して救うために、この世に来られました(ルカ19:10)。このキリストに、神の愛を見出します。そして、このキリストに、パウロが語る本当の愛を実践する人生を見ます。キリストは、単に高い道徳基準を目指して生きるようにと私たちに促しておられるのではありません。むしろ、私たちの人生の中にご自身を現わそうと、私たちを招いておられるのです。
今、世界が必要としているもの
米国に「今、世界が必要としているものは愛。甘い愛。」と歌う往年のヒット曲があります。その歌は、「制覇する山も川もいらない。世界に必要なのは愛。特定な人だけではなく、みんなを愛する愛。」と訴えました。当時の若者たちは、この歌を大合唱しました。
多くの人は、このテーマに共感するでしょう。私たちは、クリスマスや大切な人の誕生日にプレゼントを贈り、台風や地震などの被災者に義援金を送ります。また、生活に困っている人に手を差し伸べるボランティア活動を尊いと思います。
さて、75歳のラッセル・プレイサンス氏は、地元の新聞に掲載されていた貧しい家族のことを読んで、ささやかな愛を贈りたいと考えました。そこで、食料品と子どものオモチャ、そして少しばかりのお金を持って、その家族を訪ねたそうです。
このプレイサンス氏の親切は、とんでもない事件を引き起こしました。何と、その家の主人が、数日後、プレイサンス氏にナイフを突き付け、財布と車を奪ったのです。
プレイサンス氏の例を挙げるまでもなく、私たちは愛の乏しい世の中に暮らしています。愛が愛を生むのなら、愛はみんなにゆきわたるでしょう。「最後に愛は勝つ」のが現実なら、もっとたくさんの人が、どんなに苦しくても愛を実践しようと思うでしょう。しかし、愛は必ず報われるわけではありません。また、自分が愛に報いようとするときでさえ、自分の都合のいいように愛を解釈しています。というのも、愛の意味は人によってまちまちで、例えば次のようなことを意味するからです。
- 一時的な感情
- 性的な関係を曖昧に言うこと
- 人のために犠牲を払うこと
- 批判せず受容すること
- 気持ちを隠さずに率直であること
愛はキラキラと輝くもの。
愛は英語でLOVEですが、日常会話で以下のように使います。
“I love blue.”(青が好きです。)
“I love my children.”(自分の子どもたちを愛しています。)
“I love Hanshin Tigers.”(阪神タイガースの大ファンです。)
“I am in love.”(私は恋をしています。)
この例からお分かりのように、LOVE(好きだ。愛している。)とひとことに言っても、その意味はいろいろです。いくつものニュアンスを持っているので、たとえ、ふたりの人間が「愛」を誓いあったとしても、その誓いの中身である「愛」に対する認識が、完全にずれている危険性があります。同時に、「愛」は非常に抽象的で曖昧なものだから、そんなものよりもっと大切なことがあると考える人もいます。
しかし、聖書は「愛」の重要性を明言しています。使徒パウロは、怒り争っていた人々に、次のように書き送りました。
「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)
この手紙は、献身や犠牲の大切さを知っている人たちに宛てて書かれたものです。コリントの教会の人たちは、信仰、知識、霊の賜物、強い指導力、そして熱いメッセージの重要性をよく心得ていました。
この人たちの問題は、今日の私たちの問題とよく似ています。つまり、自分の関心事だけに一生懸命になってしまい、信仰と霊的な知識が本来目指すべきゴールを見失ってしまったことです。人は神のみこころから離れて聖霊の賜物を探求したり、聖書を学んだりすることもあるのに、彼らはうっかりしていました。自らが満たされることを求めるあまり、一番大切なものを忘れかけていたのです。