Month: 12月 2018

使者

ある会議に出席しているとスタッフが「伝言です」とメモをくれました。何だろうと緊張しましたが「甥っ子ができた」と書いてあったので、吉報でした。

すべてが新しい

私は車いじりが好きなので、よく近所の解体屋に出かけます。そこは、過去の自慢のなごりの間を風が音を立てて吹き抜けていくような、わびしい場所です。ねじ曲がったり、用済みになったりした数々の車の間を歩いて、ふと一台に目が留まると、現役時代にはどんな冒険をしたのだろうと思いを馳せたりします。一台一台が過去への入り口であり、語るべき物語があります。逃れられない時の流れと最新モデルに憧れる人々についてです。

神が否と言われるとき

兵役義務に18歳でついたとき、配属先について必死で祈りました。体力が自慢ではなかったので、厳しい戦闘訓練のない部署に行きたかったのです。ところが、聖書を読んでいて「わたしの恵みは、あなたに十分である」(Ⅱコリ12:9)というみことばが飛び込んできました。不安になりましたが、それは間違いでした。神は私の祈りに応えて、大変な所に配属されても助けようと言われたのです。結局、私は装甲歩兵になり、辛いこともありました。しかし、あの経験と訓練は、私を肉体的にも精神的にも鍛え、一人前の大人になる準備をしてくれたと感謝しています。

愛のない町

世界一堕落した無情な町を想像してみてください。人は愛の名のもとに悪事を行い、利己的な野心を満たすために人間関係を利用します。人の生命が奪われることも日常茶飯事です。紀元1世紀のコリントの町は、まさにそういうところでした。コリント人への手紙第一13章の崇高で聖霊に満たされた文面を初めて読んだ人たちは、その町のクリスチャンでした。

堕落したコリントの町と美しい愛の記述は、一見不釣合いです。しかし、これほど適切な組み合わせはありません。コリントの町にあった教会の人々が生き方を改めるためには、本当の愛とは何なのかという原理原則が必要だったからです。

むずかしい社会で生きている人々。

現代人の目から見ても、コリントのクリスチャンは多くの問題に囲まれていました。世間の道徳的な基準は、落ちるばかりでした。一般的な人々の宗教は、ギリシャの愛の女神、アフロダイテ崇拝です。その神殿では、千人もの女性が神殿娼婦として雇われていました。

経済的な発展も誘惑の種です。コリントは、北ギリシャと南ギリシャを結ぶ交通の要所にあり、商業が発展しました。しかし、繁栄が堕落をもたらしました。物質主義と性行為を礼賛する宗教は、快楽を追い求める世相を作りました。

コリントの道徳的堕落は非常に有名になり、ギリシャの人々は、とんでもない不道徳をしたり、酔っぱらって見境のない行動をしたりする人のことを「コリント人のようにふるまう」と言うようになりました。愛についての定義をパウロの手紙から受け取ったコリントの教会の人々は、 このような社会に生きていました。

霊的な意味で虚弱体質の人々。

現代にも通じることですが、コリントのクリスチャンは、不幸なことに、周りの社会に影響されていきました。では、パウロがこの手紙で取り上げたさまざまな問題について考えてみましょう。

  • 神の家族である教会の内部分裂(1~3章)
  • プライドと霊的高慢(4章)
  • 性的乱交(5章)
  • 信徒間の訴訟問題(6章)
  • 夫婦間の問題(7章)
  • 霊的自由の乱用(8~10章)
  • 男女の役割の混同(11章)
  • 聖餐式の乱用(11章)
  • 霊の賜物の誤用(12、14章)
  • 基本的教理の軽視(15章)

コリントの教会は多くの問題をかかえていました。その上、使徒パウロのことをよく思っていない人たちもいました。ですから、事態のひどさにもかかわらず、パウロの指導が必要だという認識はありませんでした。この手紙を読んで分かることは、手紙の受取人たちは、自分のことは棚に上げて、他人の欠点に着目してしまう人たちだということです。

霊的な洞察力のない人々。

解決策は何でしょう。キリストに従って生きるとは、聖書の知識を深め、超自然的な霊の力を追求することだけではありません。コリントのクリスチャンは、このことを理解していませんでした。パウロは、彼らが愛の本当の意味を再発見することを願いました。なぜなら、愛の本当の意味を知らなければ、教義を正しく理解し、力強くメッセージを語って伝道し、犠牲的に奉仕をしても、かえって人に疎まれるからです。パウロは、愛なくして善を行うなら、実際にはどういうことになるか、13章1~3節で比喩を使って説明しました。

コリントのクリスチャンに欠けていた洞察力は、すべてのクリスチャンに必要なものです。私たちも、信仰に関する情報や知識の山を築くばかりで、「聖書の心」で生きることを怠っていないでしょうか。私たちの心には聖霊が宿っておられます。しかし、その聖霊が私たちに心を配ってくださるほど、私たちは人のことに心を配っているでしょうか。私たちは、他人の間違いは指摘できても、愛のない自分もまた間違っているという事実に気づかないことがあります。

このような見解は、クリスチャンであることを咎めようとするものではありません。咎めるべきものは自己中心的な生き方です。コリント人への手紙第一13章は、クリスチャンを卑下させるために書かれたのではありません。それは、宗教的な振るまいを身につけようとするばかり、道に迷ってしまった人を導くために書かれました。同時に、人間関係の問題を起こしたり、普段の態度が悪かったりして、世間の不評を買うことがないよう自警しなさいと促しています。クリスチャンの自分勝手な言い争いを見て、世間の人が「キリストも大したものではない。」と思うようなことがあってはいけないからです。

人間は、「この人は私のことを本当に心配してくれている」 と感じなければ、その人のことばに耳を貸さないものです。私たちがそのように相手を思いやって初めて、世間の人は、キリストを信じる私たちの信仰が、意味あるものだと思うでしょう。キリストの愛によって生かされていないなら、

  • 伝道は、人を裁くものになる。
  • 正しい教理は、律法主義になる。
  • 献身は、独善になる。
  • 礼拝は、心の通わない儀式になる。
  • 聖書の学びは、高慢な知性偏重になる。
  • 奉仕は、疲れのともなう義務となる。

愛がなければ
雄弁な語りかけ→うるさい騒音のよう
霊的な洞察力→何の値打ちもない
慈善行為→何の役にも立たない

霊の一新を必要とする人々。

もし、コリント人への手紙第一13章が私たちの霊的な貧しさを指摘しているなら、私たちは周囲の人々にもっと心配りをするべきです。パウロの語ることばが、私たちの自己中心性を示しているなら、私たちは神によって変わるべきです。このみことばが、私たちの心を照らすなら、私たちはその光の中で自分の生き方を吟味し、もっと主に近い人生を歩むべきです。

しかし、この冊子を読むときに心に留めていただきたいことは、神は、アップグレードしなさいと私たちを召しておられるだけではなく、「あなたを心の底から変えてあげよう。」と手を差しのべておられるということです。神は、単なる道徳水準の向上を意図しておられるのではありません。私たちを人間の生まれ持った性質から解放し、私たちが自分では変えることのできない部分に御業を成してくださるのです。

今、私たちに問われていることは、神と神の真理に自分を完全に委ねるか、ということです。もし、私たちが応答するなら、神はコリント人への手紙第一13章に記されているような本当の愛を私たちの中に生み出させてくださいます。

本当の愛のしるしーその三

本当の愛は「自分の利益を求めません。」

無私無欲について説明するとき、パウロはこの表現を最も好みました。自分の利益を求めない人とは、関心が外向きの人です。そのような人は、自分のことに集中しすぎないので、他の人の必要や利益に心を配ることができます。

パウロは、ピリピ人への手紙2章でも、この愛の原則について言及しています。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり...何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:1、3~4)

これらの記述は、キリストを信じる人たちの心がひとつになるようにと、パウロが心から願っていたことを表しています。しかし、それが夫婦であれ、親子であれ、教会内やその他のどんなグループの人間関係であっても、自分たちの思いだけでなく他の人たちの気持ちに配慮しなければ、クリスチャンの心がひとつになることはありません。

自己犠牲は、私たち人間の持って生まれた性質とは相反した行為です。それは、キリストの心(ピリピ2:5)です。キリストは、ご自分を低くされました。天の御座を去って限界のある人間になり、ご自分を拒む者たちの僕となられました。ご自分を見捨て逃げる弟子たちの足を洗い、ご自分のいのちを捨てる価値などない人間の罪をあがなうために、十字架にかかって死なれました。本当の愛の実例を、このイエスの他に見つけることができるでしょうか。イエスは、自分のことを通り越して他の人のために尽くす、本当の愛の姿を見せてくださいました。

本当の愛は「怒りません。」

パウロが本当の愛を定義するために使った次の言葉は、簡単にイライラしたり、とげとげしくなったりしないという意味です。言い換えれば、すぐキレないことです。これは、愛の第1番目の原則である「寛容」に似ています。

私たちは、この愛の特徴を簡単に忘れてしまいます。夫婦は、結婚してわずか数年で、 相手にカッとしやすくなります。親は苛立つと、子どもを怒鳴りつけます。職場では、当然の権利が奪われたと、従業員がさわぎます。公務員が汚職をすると、人々はひどく怒ります。

なぜ、私たちは 「ムカつく」のでしょう。私たちは、ときどき腹の中が煮えくり返るという経験をしますが、それは欲しいものを欲しいときに手にしようと主張しているのに、「後で」などと応じられるからです。癇癪は、自己中心性の確固たる証拠です。しかし、逆の例もあります。自分本位が理由で怒っているのではなく、愛のために憤りを感じるというときです。使徒の働き17章16節がその例です。

「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」

この場合、パウロの怒りは愛によるもので、当然とも言えました。パウロは、シラスとテモテを待っているうちに、アテネの偶像崇拝について見聞きしました。そして、人々が似非宗教にだまされ傷つけられていると思うと、心の中に怒りがじわじわと湧き上がってきました。

もうひとつ例を見てみましょう。イエスは宮の両替人のテーブルをひっくり返されましたが、そのとき、心の底から怒っておられました。愛に満ちたイエスは、「祈りの家」にあった異邦人の庭を台無しにしてしまった商業主義を怒られたのです。イエスは、祈るための静かな場所を奪われた異邦人を気の毒に思っておられました。愛が欠けていたために過剰に反応されたのではありません。むしろ、愛に溢れていたために、神が愛しておられる人々を困らせる悪習慣を怒られ、あのように行動されたのです。

アテネのパウロやイエスの宮きよめの行動は、怒るべきときもあると私たちに教えます。しかし、怒りは愛をもって示さねばならず、怒っても罪を犯してはいけません(エペソ4:26)。

本当の愛は「人のした悪を思いません。」

パウロは、無視することを奨励しているのではありません。「見ざる、言わざる、聞かざる」という伝説上の猿を模範にしているのではありません。ここで使われている単語は、経理の専門用語で「統計する」とか「帳簿に書き込む」という意味です。また「悪」とは、他人から受けた傷を意味します。

「人のした悪を思いません」と言うとき、それは、仕返しをする目的で傷つけられた記録をとどめておかないことを意味します。別の言い方をすれば、本当の愛は、たとえ相手が悪くても、その人に対して長年、恨みを持ち続けたりはしません。借りは返してもらおうと相手の間違いを記録しつづけるなら、自分の借りも払いきれないほど大きくなるでしょう。私の教会には、25年間も絶交している人たちがいます。残念なことに、この人たちは、違いを乗り越えて和解しようとは思っていません。

自分の罪を認めて赦しを請う人を赦すとき、人は最も神に似せられると言われますが、 もしそれが本当ならば、自分の間違いを認めて哀れみを請う人に遺恨を持ち続けるなら、私たちは、自分を救ってくださった神から最も遠いところにいるのです。相手の失点を覚えておくのはスポーツではよいことですが、愛を実践するためにはよくないことです。

本当の愛は、相手の間違いを記帳したりしません。というのは、神が自分とともにいて、すべてを与えてくださると安心しているからです。すべての結末は、神の御手の中にあると知り、また、私の必要は神に知られていると信じているなら、他人の落ち度を自己防衛のために記録する必要はありません。

本当の愛のしるしーその四

本当の愛は「不正を喜びません。」

愛は、自分の主張を押し通そうとイラついたりしません。また、不親切をせず、ねたまず、見栄を張ったり自己宣伝したりせず、礼を失せず、利己的でなく、遺恨を持ち続けず、短気を起こしません。

愛は不正を喜ばないとは、前述のまとめです。パウロは、「神が悪いことだと言われることは愛ではない」と述べているので、他の人が道徳的に失敗したことを密かに喜ぶのは、愛ではありません。暴かれるべき悪を隠すことが愛ではありません。他人の失敗を井戸端会議のネタにするのは愛ではありません。自分は情報通だと吹聴したり、単調な会話を弾ませたりするために他人の恥を話題にすることは愛ではありません。誰かが罪を犯したという話は、関係者のきまり悪さや苦しみをあおらないように、人々の益になるような形でしか語られるべきではありません。

アイルランドの作家オスカー・ワイルドは、冗談半分にこう言いました。「私は、信条より人間が好きです。そして、信条を持たない人が、世の中で一番好きです。」このような言葉を聞くと、私たちはニヤッとします。それは、道徳的な信条よりも罪のほうが愉快だからです。パウロが記述している愛は崇高に聞こえますが、短期的に見るなら、苦痛に思えます。しかし、本当の愛は、長期的な視点に立って、罪の害を心配します。罪の報いの苦悶を思うなら、悪を歓んでいるわけにはいきません。

本当の愛は、浮かれて蒔いた悪の種が、良心の呵責に苛まれる深刻な結果を生むということを知っています。罪は、私たちから機会や利益を奪ってしまいますが、 事の発端は軽率さや愚かさです。「みんなもやっている。」と言って蒔いた種は、いつの日か、別離や孤独という果実になることを、本当の愛は知っています。罪をそのままにすれば、大切な時間が失われるだけでなく、たましいが永遠に滅びてしまう可能性さえあります。

本当の愛は不正を喜びません。それは、今だけでなく将来をも心配しているからです。悪は無邪気ないたずらではありません。本当の愛は、そのことを知っています。

本当の愛は「真理を喜びます。」

パウロは「愛は不正を喜びません。」と言いました。では何を喜ぶのでしょう。その答えは真理です。では、なぜ「正しさ」ではなく「真理」なのでしょう。パウロが「真理」という言葉を選んだ理由は、正しさと真理の本質的な関係にあると思われます。

パウロは、テサロニケ人への手紙第二の中で、「真理を信じないで、悪を喜」ぶ者は裁かれる(IIテサロニケ2:12)と述べていますが、この言葉は、「愛は真理を喜びます。」の意味を解き明かす手がかりになります。すなわち、パウロは、あることを信じることとある行動をすることの間には、深い関係があると指摘しています。つまり、何を信じるかが、私たちの行動を決定します。同時に、やりたいと思うことが、信じたいと思うことを決定するのです。

聖書が正しい信仰を強調しているのは、このためです。良い教理とは、神について、私たち自身について、他者についての正しい教えのことです。正しい教えは、自分を欺いて人と係わるのではなく、真理の中でお互いを愛するように導いてくれます。

すべての悪は、真理を否定します。間違った行為の根は、現実に対する誤信です。すべての不道徳は、自己欺瞞に起因しています。自己欺瞞とは、次のことです。それは「自分のことは神以上に私自身がよく知っている。周りの人のためにどうすればよいかについても、神以上に知っている」と言うことです。

結婚前の交際相手と性的な関係を持とうとするのは、本当の愛ではなく不誠実です。真理についての嘘を信じることで、人は殺人や強盗を犯し、人を欺し、嫉妬し、噂話をします。結婚していない大人の男女が合意の上で性的関係を持ったとしても、誰にも迷惑をかけていないというのは、自己欺瞞です。

パウロが愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます。」と語ったのは、もっともなことです。不正の反対は、単なる正義ではありません。正しくないことの反対は真理です。人と良い関係を築くことを可能にしてくれるものは、人の欠点をあげつらうことではなく、真理を信じることです。それは神について、人について、そして自分自身についての真理です。真理に背を向ければ、私たちは自滅します。勇気を出して正しく、忍耐強く、誠実に生きるなら、私たちは、自分よりうまくやっている人たちのことをも喜ぶことができます。それが、本当の愛です。

本当の愛について説明するために、パウロは、真理と正義という基礎を据えました。いよいよ、仕上げにかかります。

本当の愛は「すべてを我慢します。」

ギリシャ語で「我慢する」という言葉は「屋根」を意味します。愛は、屋根が嵐から家を守るように、愛するものを守ります。周りの状況がどうであれ、相手の益のために我慢して働き続けます。失敗の雨も逆境の風も、失望の嵐も我慢します。愛は極寒の冬や酷暑の夏を避ける屋根です。最悪の状況に耐え得る避け所です。

人は不完全な世界に生きていますから、辛く厳しい現実に直面します。そんなことがないように私たちを守ることは、誰にもできません。また、間違った選択をすれば、その先には良くない結末が待っています。その現実から私たちを救うことは愛にもできません。しかし、愛は傷つき疲れはてた人を思いやり、助けてくれる友だちを与えます。愛は、悔い改めの心を持たない人にさえ、とりなしの祈りをする人を与えてくれます。愛は、どんな悪い人にさえ、悔い改めるチャンスを与えるのです。

ここで間違ってはならないことは、「すべてを我慢します」という意味が、雑巾が汚いものを拭うように自分に向けられたすべての罪を我慢することではないということです。その意味は、愛は相手の最善を願うことを止めず、相手から赦しのチャンスを取り上げないということです。愛があるなら、相手を憎んだり、軽蔑したり、否定したりしません。愛は思いやり深く祈りつづけ、相手の失敗を忍耐し、はっきり物を言うべき時は言い、悔い改めれば赦してあげます。このようにして、相手を思いやるのです。この愛を、屋根のイメージで説明する限界が、ここにあります。つまり、この愛は、消極的な愛ではないからです。この愛は、積極的な愛です。相手の出方によってリードしたり応答したりと適切に変化する活力に満ちています。愛の本質は変わりません。しかし、相手にとってすべてが益となるために、愛の戦略は常に変化しています。