愛と平和を求めて:永井隆
1908年、島根県松江市にて、医師であった父の寛、母ツネの長男として誕生した永井隆。高校以来の唯物論者でしたが、1931年、脳溢血による母の急逝により、霊魂の存在を信じるようになります。そして、パスカルの『パンセ』を愛読するうちに、次第にキリスト信仰に惹かれていきます。
1928年、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)物理療法科(レントゲン科)に入学し、37年同医大講師、40年助教授、44年医学博士と歩んでいた矢先、45年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎大学の診察室にて被ばくしました。
著書『この子を残して』には、こうあります。「ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。……妻は、バケツに軽い骨となって我が家の焼け跡から拾われねばならなかった。」
1946年には病状が悪化し、寝たきりの状態に陥りますが、浦上のカトリック信者と近所の人の好意で建てられ、「己の如く隣人を愛せよ」(マルコ12章31節)から名づけられた二畳一間の木造の家「如己堂」にて、精力的に執筆活動を行います。随筆「長崎の鐘」はベストセラーとなり、歌謡曲・映画にもなりました。
著作で得た収入の大半は長崎市の復興再建のために寄付。愛する浦上の地を再び花咲く街にするために、学校や浦上天主堂に桜の苗木1000本余りを寄贈し、今でも「永井千本桜」として市民に親しまれています。
著書『この子を残して』の「科学者と宗教」の項で、博士はこう書いています。「つつしんで宇宙の創造主の御業の一部を拝見させていただく気持ちで、実験をしなければならない。つまり、私たち科学者が実験室で実験しているのと、修道士が修道院で祈っているのと同じなのだ。実験は祈りだよ。」
1951年、43歳の若さでこの世を去った永井博士ですが、実験をしている時も、文章をしたためている時も、家族と時間を過ごしている時も、平和を祈り続けた一生涯を全うされたのでした。
【参考文献】『この子を残して』永井隆/アルバ文庫『長崎の鐘』永井隆/アルバ文庫片岡弥吉 『永井隆の生涯』/サンパウロ長崎市永井隆記念館 http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/abm/insti/nagai/ウィキペディア「永井隆」 https://ja.wikipedia.org/wiki/永井隆_(医学博士)
道ありき:三浦綾子
クリスチャンではなくても、『氷点』『塩狩峠』『道ありき』といった本を手に取ったことのある方も多いはず。
1963年、朝日新聞社による大阪本社創刊85年・東京本社75周年記念の1000万円懸賞小説に『氷点』を応募した三浦綾子。これに一位入選し、1964年12月9日より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始したことから、彼女の作家人生は幕を開けました。
『氷点』は、1965年に朝日新聞社より出版され、71万部の売り上げを記録。大ベストセラーとなり、映画化もされています。
原罪をテーマにした『氷点』、一粒の麦の犠牲の愛を描く『塩狩峠』など、三浦作品には必ず聖書のメッセージが通奏低音のように織り込まれています。そして信仰があろうとなかろうと、読んだ人は「生きるとは?」「罪とは?」「愛とは?」といった普遍的な問いと向かわされるのです。
1922年、北海道旭川市に生まれた三浦綾子は、女学校を卒業後、7年間小学校の教員を務めますが、1946年に退職。その後肺結核にかかり、闘病中にキリスト教の洗礼を受けます。
『忘れえぬ言葉』を紐解くと、「何もかも信じられなくなって、しかしイエス・キリストの愛だけは信ずることが出来るという幸を私は得た」と当時の心境が綴られています。
1959年には、三浦光世さんと結婚し、1966年頃から光世さんとの口述筆記で三浦文学が生み出されるようになりました。
結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、1999年10月12日に多臓器不全により77歳で亡くなるまで、クリスチャンとしての信仰に根ざした著作を次々と発表してきた三浦綾子。その作品群は、今も手に取る一人ひとりの心を励まし続けています。
2001年7月には、「三浦綾子読書会」が東京で発足。その後全国に広がると共に、朗読の会、文学散歩ツアー、聖書の学び会、演劇、短歌の学び会やさまざまな特別集会など、多様な活動に取組み、2015年現在、国内外の約130か所で行われています。
また、1998年6月13日、全国のファンの募金によって建てられた三浦綾子記念文学館は、今も彼女が生涯を過ごした旭川にて、市民が運営する「民営」の文学館です。
三浦文学は、今も全国で、脈々と受け継がれているのです。
【参考文献】『忘れえぬ言葉』三浦綾子/小学館文庫三浦綾子読書会 http://miura-ayako.com/三浦綾子記念文学館 http://www.hyouten.com/
死線を超えて:賀川豊彦
1995年1月17日、午前5時46分。阪神・淡路大震災が発生。被災地を活動エリアとするコープこうべも、本部ビルや多くの店舗が倒壊したが、地震発生直後から、全国の生協から続々と支援の手が届き、「被災地に生協あり」と言われました。
この生協の生みの親が、キリスト者・賀川豊彦です。
1888年、賀川純一と徳島の芸者の間に、神戸市に生まれた豊彦。ですが、4歳の時には両親を失い、徳島の本家に引き取られます。16歳で、宣教師H.W.マヤス博士から洗礼を受け、19歳で、神戸神学校にて学びを、また同時に貧民街での活動も開始します。
26歳でプリンストン大学に留学した豊彦は、ニューヨークで労働者6万人が団結して資本家に対抗する社会運動の光景を目の当たりして、大きな衝撃を受けます。それは、「貧困を防ぐ社会の仕組みづくりこそが大切だ」と痛感する体験となりました。
帰国後まず取り組んだことは、神学校を卒業したハルとともに貧しい人々のための無料診療所の開設でした。
そして、1920年には、第一次世界大戦終結後の不況の日本で、人々が生活を守りあう消費組合「神戸購買組合」「灘購買組合」の創設に尽力しました。
そのような活動の合間にも300冊を超える著作を残した豊彦。テーマは宗教、哲学、社会、自然科学まで多岐に渡り、1920年に発表した自伝的小説『死線を越えて』は多くの人に感動を与え100万部を超えるベストセラーになりました。
そんな豊彦の思想は、「一人は万人のため、万人は一人のために」という社会の実現をめざしたもの。以下の7つの短い言葉で、表されています。
利益共楽―生活を向上させる利益を分かち合い、ともに豊かになろうとする。人格経済―お金持ちが支配する社会ではなく、人間を尊重した経済社会へ。資本協同―労働で得たお金を出資し合い、生活を豊かにする資本として活かす。非搾取―みんなが自由と平等で利益を分かち合う、共存同栄の社会をつくる。権力分散―全ての人が人間としての権利を保障され、自立して行動する。超政党―特定な政党にかたよらず、生活者や消費者の立場で考え主張する。教育中心―豊かな生活には、一人ひとりの教養とそれを高めるための教育が重要。
21世紀の日本においても、決して古びたようには感じない豊彦の思想。彼の思想には、これからの日本をも変えていくような躍動を感じます。
【参考文献】賀川記念館 http://core100.net/index.html生活協同組合 コープこうべ http://www.kobe.coop.or.jp/about/toyohiko/index.php『賀川豊彦』隅谷三喜男、岩波書店
【探訪場所】①賀川豊彦記念松沢資料館(東京都世田谷区)②賀川記念館(神戸市中央区)
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二つのJ:内村鑑三
「無教会」、「非戦論」、「二つのJ」―――内村鑑三に思いを馳せるとき、その思想が現代においても脈々と受け継がれていることに驚かされます。
1861年、高崎藩の下級武士の子どもとして江戸に生まれた内村は、17歳の時に札幌農学校に学び、キリスト教と出会います。そして、翌年には、宣教師M・C・ハリスから洗礼を受けます。
先の時代には、武士が公の正義のために戦ったわけですが、近代に入り、社会的存在としての武士の時代は終わりを告げていました。その時代に、自分は何と戦うのか?内村の出した答えは、「二つのJ」のため、でした。
「日本/Japan」と「イエス/Jesus」という「二つのJ」に献身すること、そしてそれを欧米に向けて英語で語ること―――内村はその戦いに身を投じます。
私たちは、内村の思想に目が行きがちですが、彼の人生そのものがキリスト者としてのメッセージを放っていました。不敬事件による世間からの激しい非難、自身の病苦、味方と思われていたキリスト教会からの中傷、愛妻の死。そのような人生の闇の中においても、彼は光を見つめ、そこで生まれた考えを言葉に紡ぎ続けてきました。1930年に東京で亡くなるまで、内村は新聞記者として、また雑誌主筆として多数の文章を書き、単行の著作は60冊以上にのぼります。そのうち英文で3冊執筆しています。
たとえば、内村の精神的自叙伝とされている『基督信徒の慰』の章立ては、「愛するものの失せし時」「国人に捨てられし時」「基督教会に捨てられし時」「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」「不治の病に罹りし時」となっています。そこに記されているのは内村の魂の軌跡です。
内村にとって、「読む」ということは、ただ文字面を追うだけではなく、それを書いた人間に出会うことでした。聖書も、キリストに出会うために紐解いた内村。そんな彼の著作を紐解くことで、近代の日本においてキリスト者として生きた内村と、私たちも出会うことになります。
多磨霊園(東京都府中市)にある内村の墓には、このように墓碑銘が刻まれています。
I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.(訳:日本のための私、世界のための日本、キリストのための世界、そして全ては神のため)
死してなお、その生き方は、私たちに多くのことを語り掛けてくるのです。
【参考文献】『余は如何にして基督信徒となりし乎』内村鑑三/岩波文庫『内村鑑三 悲しみの使徒』若松英輔/岩波新書『内村鑑三をよむ』若松英輔/岩波ブックレット
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開拓者:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)
1905年、明治38年。1人の米国人青年が、日本の地に足を踏み入れました。彼の名は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ、日本名一柳米来留(1880~1964)。
建築家を志していた彼の人生の軌跡に大きな影響を与えたのが、キリスト教の宣教師Mrs. ハワード・テイラーでした。その講演に感銘を受けた彼は、伝道師になることを決意。24歳の時に、来日します。
誰一人として知り合いのいなかったこの地で、彼の活動は多岐に渡りました。建材やオルガンの輸入、メンソレータム(現近江兄弟社メンターム)の販売などを行った「近江セールズ」の設立や、疎外されていた結核患者を救い続けた「近江療養所」の開設、幼稚園から高等学校におよぶ教育活動に、図書館運営や出版事業。また、音楽をこよなく愛した彼は作詞作曲も手掛け、讃美歌236番「神の国」も、彼の手によるものです。
来日3年後の明治41年12月には建築設計事務所を開き、アマチュア建築家として活動を始めたヴォーリズは、生涯を通じて1500件もの建築物を手掛けてきました。
数々の教会建築にとどまらず、大丸百貨店心斎橋店、旧大同生命ビル、主婦の友社(現お茶の水スクエア)などの商業施設、また関西学院大学、神戸女学院大学、同志社大学などの学校建築と、その作品の多くは関西を中心に今も残されています。
「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外観よりもむしろ内容にある」と語ったヴォーリズ。人は身体的な存在であると同時に、精神的な存在であるということを大切な課題として建築を計画してきました。
「もしも建物がその設計において、建物において、充分均整のとれたものであれば、感情的にも道徳的にも何等かの感化を与えるはずである。……その最も重要な機能の一つは、(そこに生活する)人々の心の中に、洗練された趣味と美の観念を啓発することでなければならない。」
日本での暮らしには、さまざまな困難が待ち受けていましたが、この地にとどまり続けることを選んだヴォーリズ。太平洋戦争時には、開戦の気配が濃くなり、多くの外国人が日本を離れる中、彼は日本人への帰化を選択。一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名し、このアジアの小国にて様々な形で神様を証し、伝道してきました。
1世紀の時を経た今もなお、その建造物などを通して、ヴォーリズの信仰の一端にふれることができます。関西を訪れる機会があれば、ぜひヴォーリズ建築に触れてみてはいかがでしょうか。
【参考文献】一粒社ヴォーリズ建築事務所 http://www.vories.co.jp/W.M. ヴォーリズライブラリ http://vories.com/ヴォーリズ建築と関西学院 http://kgkouenkai.jp/campus_life/learn/vol01/index.html
神の栄冠を目指した教育者:新島襄
徳川時代の厳しい鎖国政策の下でも、長期外国生活を体験した日本人が、少数存在しました。乗り組んでいた船が難破したため、余儀なく外国生活を経験した大黒屋光太夫や中浜万次郎。あるいは、長州藩や薩摩藩の政策として密に英国に留学した武士団などです。
ですが、同志社の創立者・新島襄の場合は、自分の意思で、たった1人で函館から米国に向けて密出国したというのですから、驚きです。
新島襄(1843-90)は1843(天保14)年、安中藩の江戸詰め下級武士の長男として生まれました。彼は国家の改革者、日本の近代化の先導者になりたいという強い意志をもって、21歳の1864(元治元)年、函館から国禁を犯して脱国し、翌年アメリカのボストンに着きました。
8年近く米欧で生活した新島は、欧米文明をつくり、支えているものは、キリスト教信仰を持ち、デモクラシーを体得した独立自尊の人間であるという結論に達します。キリスト教の人間形成が近代国家の形成に果たす役割の大きいことを認識した新島は、1874(明治7)年、宣教師として帰国。早速キリスト教の福音を全国に宣べ伝えるとともに、日本の近代化のリーダーとなる人物の育成を目ざし、1875(明治8)年11月、京都の地に同志社英学校を設立しました。
「世の中のため」に生きることの大切さや「社会事業は神の委託事業である」と口癖のように言っていた新島の教えに感化され、日本の社会事業の草分けとなる人物が多く輩出されました。
2013年には、テレビ大河ドラマ『八重の桜』が放映され、にわかに連れ合いの八重に焦点が集まりました。『八重の桜』のチーフ・プロデューサー内藤慎介さんは、ブログでこう語っておられます。「明治期、〈敗者〉の烙印を押されていた会津藩出身者でしたが、新島八重をはじめ、様々なジャンルにおいて、その後の日本の礎となるような人材を輩出しています。なぜ、彼らが、文明開化の日本をリードする役割を果たせたのか、を考えてみたいのです。」
新島襄と八重。2人は出会い、近代の日本の礎となる人材の教育に心血をそそぎました。そこに聖書信仰に裏打ちされた深い愛と献身があったことを忘れることはできません。
【参考文献】学校法人同志社 http://www.doshisha.ed.jp/history/niijima.html『新島襄自伝』同志社編/岩波文庫『サムライウーマン 新島八重』守部喜雅/フォレストブックス
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無限の愛
ガンガン、カチカチという機械音の中に横たわり、指示されるまま息を止めました。MRIは珍しい検査ではありませんが、私は閉所恐怖症なので、気持ちを何か、否、むしろ誰かに向ける必要があります。そのとき「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか…」(エペ3:18)というみことばが、機械のリズムに合わせて頭の中で踊り出しました。使徒パウロは、エペソの教会のために祈りつつ、神の愛の広がりが無限であることを強調しました。
死に至るまで忠実に:キリシタンの殉教者たち
フランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教が伝わったのが1549年。16世紀後半を通じてその布教活動は順調に進んでいきましたが、豊臣秀吉による伴天連(バテレン)追放令が1587年に発布されたことにより、迫害の時代が幕を開けます。
1596年、スペイン船サン・フェリペ号が浦戸に漂着すると、秀吉は積み荷の没収を命じます。サン・フェリペ号に乗船していたフランシスコ会士は積み荷の返還を求めましたが、この動きに端を発して、秀吉のキリスト教に対する弾圧は激しさを増していきます。
秀吉は、京都奉行の石田三成に、フランシスコ会員・キリスト教徒全員を処刑するように命じます。結果、大坂・京都で、24人が捕らえられ、処刑場である長崎へ向かう途中捕縛された他の2人とともに、計26人が長崎の西坂の丘にて処刑されました。十字架につけられた26人は讃美歌を歌い、死の直前、パウロ三木はキリストを証ししたと言われています。
江戸時代に入ると、1614年に徳川家康が禁教令を発布。さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは、幕府による徹底したキリシタン取り締まりが行われました。
それでも、日本におけるキリスト教信者は途絶えることなく、「潜伏キリシタン」となって、少人数でひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続けました。慈母観音像を聖母マリアに見立てたり、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったりして信仰を守りつづけたのです。
幕末開国後の1865年、長崎の大浦天主堂をある信者が訪ねてきたことから、潜伏キリシタンの存在が国内外で知られるようになりました。キリシタン禁令は開国後、そして明治時代に入ってもつづきました。しかし、政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難・批判を招くことになり、1873年、ようやく「キリシタン禁教令」が解かれて信仰の自由が認められることとなりました。
前述の日本26聖人は、1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられました。また、2018年6月30日には、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本両県)が世界文化遺産に登録されました。
秀吉の伴天連(バテレン)追放令から数えると、約280余年におよんだ日本の禁教。「死に至るまで忠実であれ」(ヨハネの黙示録2:10)という聖書の教えに忠実に生きた名も無き人々は今や天国で「命の冠」を授かり、私たちを雲のように取り巻く証人となっています(へブル書12:1)。
【参考文献】『日本キリシタン殉教史』片岡弥吉/時事通信社ウィキペディア「日本二十六聖人」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本二十六聖人カトリック高槻教会 http://www.catholic-takatsuki.jp/26seijin/ウィキペディア「隠れキリシタン」 https://ja.wikipedia.org/wiki/隠れキリシタンウィキペディア「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
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