カスリーン・ノリスは、現代の完全主義は、臆病になりすぎて必要なリスクを取れなくなる極めて不健全な心理状態だと言います。一方、マタイの福音書で「完全」(5:48)と訳された単語は、成熟、完成、全人的を意味すると述べます。つまり、「完全であるとは、成長の余地を残しつつ、他人に尽くせる程度に大人であること」と結論づけました。
完全の意味がそうだとすると、マタイの福音書19章の「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいの……か」と尋ねた裕福な青年の話が理解できます(16節)。イエスはまず、戒めを守りなさいと答えられましたが、この青年は、全て守っているはずなのに何かが足りないと気付いていて、何がまだ欠けているのでしょうと尋ねました(17、20節)。
そこでイエスは、彼の心を束縛しているものが、彼の財産だと示されました。そして、「完全」、すなわち、神の御国で進んで人に与え、人から受ける人になりたいなら、彼が他人に心を閉ざす要因になっている財産を手放さなくてはいけないと言われたのです(21節)。
私たちには自分なりの「完全」、つまり、こだわりがあります。それを手放しなさいというイエスの御声に従い、解放されましょう(26節)。
自分のこだわりを聖書の「完全」と取り違えたことがありますか。支配したいという欲求を神に明け渡すと、どのように完全主義から解放されますか。
愛の神よ、私の自己実現の願望を、主にある成長と勘違いしてしまうことを赦してください。己のこだわりを手放し、主にあって解放された人生を楽しむことができますように。