親しい友人が私の目を見て「君は時々実際よりも敬虔に聞こえるね」と微笑みながら言いました。私はドキッとしましたが、声を立てて笑いました。優れた洞察力です。敬愛すべき友人の言葉でなければ傷ついていたでしょう。少々癇(かん)にさわりましたが、彼の正しさを認めざるを得ません。私は信仰について話すとき、わざわざ専門用語を使うようなところがあり、不誠実な印象を与えます。彼は、私のことを大切に思っているので苦言を呈してくれました。自分が純粋に信じていることを嫌味なく伝えられるように、私を助けてくれたのです。

賢者ソロモンは「愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす」(箴27:6)と書きました。この言葉が真実であることを私の友人は証明してくれました。耳の痛いことと知りながら、あえて言ってくれたことに、私は感謝しています。耳当たりのよいことばかり言われても、霊性を成長させることはできないからです。

はっきり言うことが親切という場合があります。動機が純粋で謙遜な愛の場合です。そういう親切を受け止めたり、与えたりして、神の思いやりを映すことができますように。