お客さんが来るというので、夫婦で掃除をしました。私は台所のタイルの床にシミを見つけ、床に這いつくばって拭き取ろうとしました。ところが、1つのシミを消すと別のシミが目立つのです。私が落とした汚れは皆、他の汚れを目立たせるだけでした。突然、我が家の台所の床がひどく汚く感じました。どんなに頑張っても、決してきれいにならないことも分かりました。
自浄能力について似たような記述が聖書にあります。己の罪の性質を己で何とかしようとしても、どうにもなりません。自分たちに愛想を尽かしかけたかのように(イザ64:5)、預言者イザヤは語りました。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです」(6節)。しかし、神のあわれみの内に必ず希望があると信じて、次のように祈りました。「主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」(8節)。彼は、私たちにはできなくても、神にはできると確信していました。神だけが私たちをきよめ「雪のように白く」(1:18)してくださると知っていました。
私たちは自分の汚れた心を自分できよめることはできません。しかし、感謝なことに、ご自分を犠牲にしてくださったお方によって、私たちはきよめられ、救われます(Ⅰヨハ1:7)。
神の赦(ゆる)しを受け取るのが難しいのはなぜですか。自分で自分の罪を何とかしようと思いがちなのはなぜですか。
主よ、自分で何とかしようなどと思わずに、あなたの惜しみない救いの中で安らげるように助けてください。