イエスは従順を学ばれた
第二章 イエスの悲しみがもたらしたもの
古いラテン語のことわざに「経験は最良の教師」というのがありますが、その例は生活のあちこちにあります。科学者は実験と考察を積み重ねることで、よりよい理論を立てます。アスリートやミュージシャンは練習を積み重ねることで能力を高め、技術を磨きます。夫婦は長い歩みの中で多くの困難に共に立ち向かい、絆を深めます。事実、経験は人生の貴重な導き手です。
経験から学び、人間関係を深める。これは誰もが体験的に知っている、当たり前のことです。しかし、神の子イエスも経験から学ばなければならなかったと聞いたらどうでしょうか。驚きや違和感を覚えるかも知れません。それでもヘブル人への手紙は、イエスが私たちと同じように経験から学ばれたと教えています。
迫害下のクリスチャンにあてたこの手紙は、キリストの優位性、つまりキリストが全てのものにまさるお方だと論ずるために紙幅の多くを費やしています。しかしそれだけではありません。イエスが悲しみの人として経験された苦しみと、それを通して成し遂げてくださったことについて、3つの大切なことを教えています。(先述のように、それは十字架と復活による救いに留まらないのです。)それでは、イエスは何を学ばれたのでしょうか。
【イエスは従順を学ばれた】
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、(ヘブル5:8)
興味深いことに、ある注解書はここにギリシャ語の言葉遊びがあると指摘します(The Bible Knowledge Commentary)。「苦しみ【エパスェン】によって……学び【エマスェン】」と韻を踏むことで、「苦しみ」と「学び」の関連性を強調しているというのです。
これは単なる上手な言葉遊び以上のものです。ギリシャ語でこの手紙を聞いた当時の聴衆は、この語呂合わせによって、著者が何か大切なことを強調していると気付いたはずです。それはキリストの経験と、その重要性についてのメッセージです。
また、ここには明らかな教義上の挑戦が含まれています。それは「ケノーシス」と呼ばれる、ピリピ人への手紙2章の内容と深くつながっています。パウロはそこで、キリストはこの地に来られるに際し、ご自分を「空しく」、あるいは「無に」されたと書いています(7節、原語「ケノー」は「ケノーシス」の語幹)。
ここに神学的な挑戦が凝縮されています。イエスがこの地に来られた時、一体何を空しくされたのでしょう。神としての属性、御性質、特権、あるいは他の何かなのでしょうか。神学者たちが何世紀にもわたり議論を続けていますが、次の文章は特に有益です。
ここに神秘的な要素があることを否定する必要はない。……私たちには十分に理解できないが、初めから全てをご存じの完全な神の子が、自ら人となることで、人間であるということを身をもって理解してくださった。人間の本物の苦悩を味わわれたからこそ、主はご自身に従う者たちに心の底から共感してくださる。(The Bible Knowledge Commentary)
しかも、ヘブル人への手紙が「学び」と結び付ける「苦しみ」は、ありふれた普通のものではありません。直前の節を見れば、「学び」と結び付けられている「苦しみ」は、先ほど見たあのゲツセマネでの苦悩です。
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔(けいけん)のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5:7)
ある注解書はイエスのゲツセマネでの祈りと学びの関係性についてこう記しています。
神の子であるにもかかわらず、イエスは父のみこころからそれてしまいたいという誘惑を経験された。その先に苦しみが待ち構えていたからである。イエスは、この世を生きる生身の人間にとって、神への従順が実際どのようなものなのかを学ばなければならなかった。それは同じように誘惑にさらされる私たちを理解するためであり、また、徹底して自らを神にささげ従い抜く模範を私たちに示すためだった。(The New Bible Commentary)
苦しみの経験から学ばれたからこそ、イエスは苦しみの最中にいる私たちに同情してくださいます。次はこの点について見ていきます。
十字架上の悲しみ
第一章 イエスが経験された悲しみ
それまでも分かっていたはずの十字架の意味が、思いもよらず突然、心に迫ってきたという経験はないでしょうか。1978年、ナッシュビルのスタジオで、私が所属していた大学生バンドのアルバムを制作していた時のことです。レコーディングエンジニアのトラヴィス・タークが「君に聞かせたい未発表音源がある」と言うと、照明を落とし、私一人をスタジオに残して出ていきました。流れてきたのはフィル・ジョンソンの歌う”The Day He Wore My Crown”という美しいバラードでした。「本当は私のかぶるべきいばらの冠をかぶり、イエスは十字架でご自身をささげてくださった」という歌詞に心を打たれ、時が止まったかのように感じました。
十字架上で「悲しみの人」が何を経験してくださったのかを見ていきましょう。
さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:45-46 強調は筆者による)
これは本書の冒頭に引用した、苦しむ救い主についてのイザヤの預言を思い起こさせます。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
(イザヤ書53:3-4 強調は筆者による)
イザヤが記した痛みそのままを、イエスは十字架上で余すところなく、最期までその身に受けてくださいました。その苦しみは、詩篇22篇のダビデの嘆きに託されました。「神はなぜ、私を見捨てられたのか」という叫びが、真っ暗なカルバリの丘に響き渡ったのです。しかし、驚くべきことに、この悲しみが最終的にはイエスに喜びをもたらしました。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2 強調は筆者による)
イエスは私たちの悲しみと痛みを担ってくださっただけでなく、十字架の犠牲によって私たちへの愛を表し尽くしてくださいました。十字架の上で、私たちの悲しみや痛みだけでなく、そのような重荷をもたらす罪と過ちをも担ってくださいました。十字架はこの壊れた世界のすみずみにまで及ぶイエスの勝利ですが、そこには叫ばざるを得ないほどの苦しみが伴いました。
苦しみの叫びは、究極の勝利の叫びに変わります。「完了した」(ヨハ19:30)これがイエスの勝利宣言です。私たちと同じように痛みや悲しみを経験されたイエスは、私たちの数々の痛みや悲しみをその身に引き受け、それに打ち勝ってくださいました。
はじめに
あのヒーローが再びスクリーンに帰ってきました。2013年、クリストファー・ノーラン監督による『スーパーマン』のリブート版、『マン・オブ・スティール(直訳:鋼の人)』が封切られたのです。
公開に先立つインタビューで、ヒロインのロイス・レインを演じたエイミー・アダムスが示唆に富む発言をしています。スーパーマンの物語が世代を超えて人気なのは、誰の心にも本質的な憧れがあるからだと言うのです。「私たちを自分自身から救い出してくれる人がどこかにいる、そう信じたくない人なんているのでしょうか」
核心を突いた問いです。窮地のとき、私たちは誰かの助けを求めます。「鋼の人」スーパーマンが来てくれればいいのに、と思います。しかし、聖書が告げるのは、それとは異なる筋書きです。来るべきメシヤ、贖(あがな)い主、救い主について、イザヤはこう預言しました。
彼は蔑(さげす)まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
(イザヤ書53:3-4 強調は筆者による)
「鋼の人」とは似ても似つきません。この世の常識とは真逆に、王は「鋼の人」ではなく「悲しみの人」として来られるというのです。この預言でイザヤが伝えようとしていることを端的にまとめれば、次のようになるでしょう。
イエスは私たちの罪と咎(とが)だけでなく、私たちの痛みや悲しみをも担われた。
本書は、ここからニつの大切な問いを取り上げます。一つ目は、「悲しみの人」イエスが人として歩む中で、どのような痛みや苦しみを経験されたのか、ということです。前半はイエスの直面された苦悩に注目します。イザヤの預言の通り、イエスが正真正銘「悲しみの人で、病を知っていた」ということを福音書から見ていきましょう。
一方、「悲しみの人」イエスの個人的な経験は、現代を生きる私たちの様々な苦悩とどう関わるのでしょうか。これが二つ目の問いです。イエスの苦しみは、十字架と復活による救いの恵みに加え、何かを私たちにもたらしたのでしょうか。後半ではヘブル人への手紙を手掛かりに、この点を考えます。
もちろん、「悲しみの人」は私たちの罪と咎を担うために来てくださいました。しかしそれだけでなく、私たちの悲しみと痛みをも担ってくださいました。キリストが地上で経験された暗闇をつぶさに見ることで、イエスがあわれみ深く信頼に足る大祭司だと理解できるでしょう。このお方がおられるから、私たちも人生の暗闇を歩んでいくことができるのです。
ビル・クラウダー
(このプランは同タイトルの探求の書を再構成したものです)
満足を手に入れる
幸せを求めて頑張ったのに空しいと、人生相談のコラムで嘆く人に、ある精神科医がにべもない回答をしました。人間は幸福になるためではなく「生きて子孫を残すためだけに」存在している。そして、呪われ、満足という「捕まらないチョウのちょっかい」に翻弄(ほんろう)されている、というのです。
兄弟サウロ
交換留学生になった時、私は「あの国以外に遣わしてください」と祈りました。行く先は未定でしたが、行きたくない国ははっきりしていました。その国の言葉はできず、国民性や習慣に関しても偏見を持っていました。
罪を取り除く
庭の水道の横に雑草が芽吹いていましたが、大したことはないと無視していました。まさか芝生を傷めるとは思わなかったのです。しかし、数週間後には小さな茂みとなって庭を占領し始めました。伸びた茎は通路をまたぎ、別の場所にも芽が出ました。大問題です。夫婦で根こそぎにし、除草剤をまきました。