Month: 6月 2023

神の季節

最近「冬ごもり」という言葉に助けられました。冬は自然の営みが静止したかのようですが、人生にも冬があり、休息と回復の時だと、作家キャサリン・メイが述べています。私は父をがんで亡くし、力が抜けて何カ月も戻らず、人生の停滞に焦っていました。私は夏の力が戻るように祈っていましたが、学ぶべきことがあると悟りました。

イエスのために戦う勇気

西暦155年、棄教しなければ火刑だと脅されたポリュカルポスは言いました。「私は86年間、主のしもべだが、主に冷遇されたことはない。それなのに、なぜ今、私を救われた王を冒瀆(ぼうとく)することができようか」。私たちも迫害されたなら、この言葉に奮い立つでしょう。

神の御手は届く

身体検査を受けて所内に入り、面会簿に記名して混雑した待合室の椅子に座りました。ため息をつく大人や駄々をこねる幼い子どもたちを見ながら、私は心の中で祈りました。かなり待たされてから、武装した看守が名簿を読み上げ、部屋に案内されると、指定された椅子に座りました。厚いガラス窓の向こうに継息子が座り受話器を手にしたとき、私は自分の無力さに圧倒されて涙を流しました。しかし、神は慰めてくださいました。彼はまだ、神の御手の届くところにいると。

あなた自身になる旅路

「ナンバーワンになれるオンリーワンの分野」が、誰にも等しくあります。それは、「最高にあなたらしくある」という分野です。その分野であなたに敵う人はいるでしょうか。世界の70億人の内で、その敵は、あなただけです。しかし、神と共に歩むとき、あなたは、その敵を神の愛で克服するでしょう。
神は愛です 新約聖書ヨハネの手紙第一4章16節
神の愛と共にあるなら、みんなと同じにならなくても、愛される人になれるし、他者を愛することもできます。

そういうことが分かってきて、私は、人生とは「だんだんと最高の自分になっていく」長い旅路なのだと知りました。今でも時々、人と比較してしまうことがあります。しかし、そのたびに、イエス・キリストが命を対価として投げ出すほどに自分は高価で尊い存在だと聖書が言っているのだと思い出し、自分を取り戻します。

あなたも、「だんだんと最高の自分になっていく」旅路のどこか途中にいるのだと思います。どうかその旅路に神の祝福がありますように。神がバベルの塔を挫折させたのは、あなたを愛しておられたからです。この神と出会ってみませんか。そして、あなた自身であることの幸せと、愛されることの幸せの両方を、あなたが手にすることを、私は心から祈っています。

著者:陣内俊

(このプランは同タイトルの「自分らしく生きる」シリーズ小冊子を再構成したものです。)

私を自由にしてくれた聖書との出会い

今の私は、あのふたつの矛盾する葛藤から、ずいぶんと自由になっています。なぜ私が自由になれたかと言いますと、自分の創造者と出会えたからです。その出会いを手引きしてくれたのが聖書です。聖書は、私は他の誰とも違う唯一無二の存在として造られた、と語っています。
わたしの目には、あなたは高価で尊い 旧約聖書イザヤ書43章4節
しかもこの「高価で尊い」という言葉は、口先だけの励ましではありません。根拠があります。イエス・キリストの十字架です。古代ローマで、神であられるイエス・キリストはみずから十字架につけられ殺されました。それは、私たちの罪の身代わり、いわば「身代金」だというのです。対価としてご自分の命を支払ってくださった方が、高価で尊いと言ってくださるのだから、もはや私は、自分を人と比較する必要などないと分かりました。

また、私は高価な存在であると同時に、他者と豊かな人間関係を築き、安心をもたらす共同体の一部として調和して生きるように造られているとも聖書は伝えています。

私は教会に行くようになり、他の人と同じではなくても受け入れてもらえるということをだんだんと学んでいくようになりました。むしろ、他の人と違うからこそ、その違いを喜んで、他者とハーモニーを奏でることができるということも分かってきました。

矛盾するふたつの欲求 バベルの物語

人生で長いこと抱いていた矛盾するふたつの欲求が、実は同じ根っこからやって来ていたと知ったのは、最近のことです。

聖書に、「バベルの塔」という話が出て来ます。旧約聖書の創世記11章に、こうあります。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」創世記11章3~4節
これを神が見られ、人々の言葉を通じないようにさせた結果、バベルの塔は完成せずに挫折しました。ティモシー・ケラー牧師は、『この世界で働くということ』という書籍のなかで、人々が塔を作った動機は「アイデンティティの確立」だったと指摘しています。この物語には、人間がアイデンティティを確立しようとしたふたつのルートが登場する、とケラー牧師は言います。

ひとつめは、個人の才能と業績を通して、ふたつめが、自分の所属するグループと自分を同一化することを通してです。レンガを焼くという技術革新によって、世界一の塔を建てようというのは、個人の業績や才能を誇示しようとする企てであり、「われわれの名をあげよう」という言葉からは、自分の所属集団を偉大にし、それと同化することによって偉大さを実感したい、という欲求が見え隠れします。

かつて、他者との比較に怯えていたときの私は、業績を通してアイデンティティを確立しようとし、仲間に迎合して自分らしくない行動をするときの私は、所属する集団によってアイデンティティを確立しようとしていたのです。矛盾するふたつの欲求の根っこには、アイデンティティの確立という、ひとつの究極的な欲求があったのです。

しかし、「ものさしで測る」ことによって自分を確立しようとするなら、その行き着く果ては、果てしない競争によって心すり減らす生き方です。いつも誰かと比較しながら生きるのは、本当に苦しい生き方だと思います。

逆に、所属する集団によって自分を確立するならば、同調圧力に屈するだけでなく、他者を同調圧力によって排除する方向にすら向かいます。

日本に特有のいじめはこれが原因だとされています。アイデンティティの問題は、他者との比較によっても、他者との同化によっても、解決できない。神はそのことを知っておられたからこそ、バベルの塔に介入なさったのではないでしょうか。

私の物語

小さい頃から、私は優秀な姉と弟と比べられながら育ちました。姉は中学三年間、学年で1番以外の成績を取ったことがありませんでしたし、弟は東京大学に現役で合格しました。私も勉強ができないわけではないけれど、姉や弟と比べれば話にならないような成績でしたから、誰がしなくとも、自分で自分のことを比較しては、落胆したりしていました。

でも、私はどこかで、比較されたくないし、比較したくもないと思っていました。

ところが世の中には「自分を測るものさし」があって、私がどこへ行こうが、何をしようが、それによって否応なく測られる。そこからは逃げられないと、諦めにも似た気持ちを抱いていました。それが、私の中高生時代です。

学校の成績、外見、運動能力、稼ぐ力、住んでいる家、洋服の趣味に至るまで、私たちは、測られ比較されるという呪いから、一生逃れることができないのだろう。そんな風に考えては、誰にも測られない場所とはどんな場所だろうと空想したりしました。

他方で、褒められれば有頂天になり、けなされれば腹が立ちます。自分よりも「下」だと認定した相手を心の中で見下し、自分よりも「上」だと思っている誰かには、心密かに劣等感を抱く、そんなあさましい魂の自分がさらに嫌になる・・・という悪循環に陥っていました。

同時に私は心のどこかで、人に受け入れられたいとも思っていました。もっと率直に言えば、愛されたいと渇望していたのです。ですから、仲間に受け入れられるように振る舞うのですが、ときには仲間内で演じているキャラが本当の自分ではないと知っているので、そんな風に振る舞った自分が後で嫌になる、そんな経験もたくさんしました。

私にはもう一つ問題がありました。それは、自分があまりにも変わっているので、本当に受け入れてもらえる場所なんて、この世の中には決してないのではという、根拠のない確信のようなものを小さい頃から心に抱いていたのです。どんな集団の中にいても、自分だけは他者と違う、自分はきっとここにいてはいけない存在なのだ、という居心地の悪さがいつもありました。自分が異物のように感じ、本当は地球人の形をした宇宙人なのかもしれないと考え始めるとそれが止まらなくなり、会話においてけぼりにされ、ますます変人認定をされる・・・これもまた、別の悪循環でした。

今思い返すと、私は比較という尺度においては、他者と違っていたいと願い、仲間に受け入れられるという尺度では、他者と同じになりたいと願っていたのです。