しばらく会えない間に、旧友はがんだと告知され、治療を始めました。彼の住む州に行く用事が思いがけずでき、再会することになりました。待ち合わせの店に入り、顔を合わせるや、2人の目に涙が溢れました。もう長く同じ部屋で語らっていません。そして今、死の気配が人生のはかなさを暗示しています。一緒に笑ったり、ふざけたり、冒険したり、泣いたり……。長年の数々の思い出がよみがえり、涙がとめどなく溢れました。見つめ合う目から流れるのは、互いの間にある大きな愛でした。

イエスも涙を流されました。親しい友ラザロの墓前での様子をヨハネが記しています。「主よ、来てご覧ください」と言われた次の一節は「イエスは涙を流された」(35節)です。この記述でキリストは真に人だったと分かります。その瞬間、ヨハネが言葉にしなかった多くのことも起こっていたでしょう。しかし、イエスを見たユダヤ人たちの言葉が真実を如実に示しています。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」(36節)。この言葉は、イエスが人の全ての弱さを知る唯一の友であり、礼拝するにふさわしいお方だという十分な根拠です。イエスは、血肉を持ち、涙するお方です。私たちのことを愛し、分かってくださる救い主です。