恐怖症とは、特定の物事や状況に対して不合理な恐怖を感じることと定義されます。例えば、クモ恐怖症。風船恐怖症やチョコレート恐怖症というものもあります。世の中には400以上の恐怖症があるそうです。つまり、どんなものも恐怖の対象になり得るのです。

聖書は、十戒を受け取ったイスラエルの恐怖を「民はみな、雷鳴、稲妻……を……見て身震いし」(出20:18)たと記しています。モーセは彼らに語りました。「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは……神への恐れがあなたがたに生じるためです」(20節)。彼は恐れるなと語りつつ、恐れよとも述べています。これは矛盾でしょうか。実は、ヘブル語の「おそれ」には少なくとも二つの意味があります。一つは「怖い!」という気持ち、もう一つは、神に対する畏怖の念です。

風船恐怖症やチョコレート恐怖症などと聞けば、笑ってしまうかもしれませんが、真面目に考えるなら、人にはあらゆるものを恐れる可能性があると気付きます。恐怖はクモのように人々の生活に忍び寄り、世界を恐ろしい場所にできます。ですから、恐怖や恐怖症と闘うとき、「私には、暗闇のただ中に共にいて慰めてくださる、畏敬の念を抱くべき神がおられる」と思い出すことが得策です。