ある10代の少女が、「私には幸せになる権利がある」と議会で語りました。彼女は、みんなの気持ちを代弁しているようなもの。これは人間の叫びです。自己啓発の第一人者は、神はあなたが幸せであることを望まれていると言いました。
しかし、本当でしょうか。幸福の希求は悪ではなく、むしろ好ましい心の状態です。けれども、心の欲するものは、時と状況によって変わり、自分の欲求が満たされることで他人の幸せがつぶれることもあります。
イエスが、世の罪を負って十字架にかかる直前のことです。主は弟子たちを心配して、「あなたがたは泣いて……、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハ16:20)と言われました。そして「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22節)と約束されました。
この種の喜びは、単に自分にとって良いことが起こったのでうれしいというものではありません。むしろ、神の御心を実践して育まれていくものです。イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6:33)と言われました。
幸せは不運な状況になれば奪われます。一方、イエスに従って得る喜びは、自らの状況が悪くなっても、力強く育まれていきます。
自分の欲しいものを追いかけ、結局は、幸福感を得られない。それはどのように起こるのでしょう。幸せと喜びの違いは何でしょう。