友人のビルは昔、はしごから落ちて、胸から下がまひ状態です。今度は、手術中に重度の感染症にかかりました。入院中の彼から新たな試練の経緯を聞いていると、「傷跡を見せようか?」と毛布を持ち上げました。そこには治療のために切開した大きな傷跡がありました。「痛い?」と聞くと「感覚はないよ」と答えました。
私は罪意識を感じました。長年の付き合いなのに、私は彼が身体機能と感覚機能の両方を失っていたことに無頓着だったと気付いたのです。彼の日々の苦労や不便を理解しようともっと心を砕くべきだったと自分を恥じました。
友人への思いやりのなさに気付いて、ユダの王、ヒゼキヤを思い出しました。彼は、子孫も王宮のものも全てバビロンに奪われるという預言者イザヤの言葉に、「ありがたい」と言いました(列下20:17-19)。「自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」(19節)からです。彼は良い王でしたが、人々の窮地よりも、自分の保身が大事でした。
神は正反対です。聖書は次のように語ります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハ4:10)。神は私たちを深く愛されたので、私たちのために苦しまれました。そのおかげで、私たちは、永遠に神の愛の内に生きていけるのです。
神の思いやりとは、あなたにとってどういう意味ですか。 今日、他の人々をどのように考えますか。