スティーブがチェーンソーを持って森に行こうとすると、5歳の息子オーガストが「パパ待って。僕も行く」と、おもちゃのチェーンソーと手袋と耳あてを持ってついてきました。スティーブは、危なくないように、離れた場所に息子用に丸太を置きました。10分も経つと少年はクタクタです。おもちゃのチェーンソーで丸太を切るのですから。しかし、父を「手伝える」のがうれしく、父も息子と過ごす時間を喜びました。
私たちと天の父との関係も同じです。手伝うつもりで「お父さん、待って。チェーンソーを取ってくるから」と言いますが、チェーンソーはさまつなことです。大した助けにはなりません。神にとって「お父さん、待って」という部分が何より大切です。手伝いうんぬんではありません。
神の御子イエスを愛する人は、神の家の養子とされ、神の霊を頂きます。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(ロマ8:15)。あなたは居場所を失わないように懸命に働く使用人ではなく、何があろうと父が愛する子です。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(Ⅰヨハ3:1)と聖書は語ります。
神は私たちがご自分に仕えることを喜ばれますが、それは、私たちの奉仕が必要だからではなく、私たちの存在を望まれるからです。
「神は私から何を望んでおられるだろう」と考えるとき、その答えは何になりますか。今日、どんなふうに神と時間を過ごしますか。