マヌエルが信号で停止すると、娘がタイヤ交換に苦闘している人に気付きました。「パパ、助けてあげて!」これでは礼拝に遅刻です。しかし背後に神がおられると思い、見知らぬ人に手を貸しました。そして「一緒に教会に行きませんか」と誘いました。
使徒言行録には、祈りの場に行くパウロとシラスが、自分たちに何日も付きまとう、占いの霊につかれた女奴隷を解放する話があります(16:17)。パウロは「たまりかねて……イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と命じました(18節)。この「たまりかねて」と訳されたギリシャ語には「悲しんで」という意味もあります。パウロは彼女をあわれんだのです。しかし、彼女の占いで稼いでいた人たちはもうけの種を失って怒り、彼らを捕らえ、役人に引き渡しました(19節)。彼らは裁判もなしにむち打たれ、投獄されました(22-24節)。
神を愛するなら犠牲が伴います。パウロとシラスは不利な状況になると分かっていても、あえて女性を助けました。イエスは、自分の十字架を背負って従うように弟子たちに言われました(マタ10:38)。それがイエスを愛する道です。他人を優先したり、苦しみを甘受する羽目になることもあります。イエスもそうでした。主は、想定外の「割り込み」を受け入れなさいと言われます。あなたは「はい」と言えますか。
自分にとって不都合な割り込みをどう扱いますか。