生後2カ月半の孫娘レイラニに「おや、ずいぶん深刻な顔をしているね」と話し掛けました。彼女は眉間にしわを寄せて私の顔を見ています。私は続けました。「こんな世の中じゃあ深刻にもなるね。でも、ママとパパも、ばあばとじいじもレイラニを愛しているし、何よりもイエス様が愛しておられるよ! それで十分だよね?」

すると、しかめっ面が輝く笑顔に変わり、雲間から陽が差し込むように、私の心を溶かしました。私もご多分に漏れず「じじ馬鹿」なので、孫が自分の言葉を理解したと言いたいのですが、そうではないでしょう。しかし、私の言葉に込められた喜びの一端を感じ取ったのかもしれません。彼女の無邪気な笑顔は、「子供のように神の国を受け入れ」(マコ10:15)なければならないというイエスの言葉を想起させます。

人々は子供を連れてきて、イエスに「手を置いて」祝福してもらおうとしましたが、弟子たちは、主は子供たちになどかまっていられないと考えて「この人々を叱」りました。イエスはその行為に憤られ、上記のように言われたのです(14-16節)。

子供は当然、誰かに依存しなくてはならない立場の弱い存在です。神に良くしていただくには、プライドを捨て、どんなことにも、神の恵みが必要だと認めなければなりません。そうすれば、神はこの世の絶望を神と共に永遠に生きる希望に替えてくださり、私たちを笑顔にしてくれます。