どこから始めればいいの?
◆ エレミヤ書48-49
◆ ヘブル7
苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。
―詩篇120:1
何年か前のことですが、高速道路を走っていたら、突然エンジンが止まってしまったことがありました。車を路肩に寄せて停車させ、外に出てボンネットを開けてみました。そして、エンジンを見つめて考えました。「こんなことをしても、どうしようもないわ。車のことは全く分からないし、どこから手をつければいいのかもわからない。」
特別の美徳
◆ エレミヤ書46-47
◆ ヘブル6
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。― ガラテヤ5:22-23
メリッタ・アダムソンの著書「中世の食物」は、中世ヨーロッパの美食について書かれています。鳥獣肉の料理、ペーストリー、プディング、その他、数々のグルメ料理は、それを作り出す創作的な喜びを表しています。しかし、この食生活には過食という問題がありました。またこの問題は、教会行事と相まって悪化しました。というのは、教会の暦には断食と断食開けの祝宴が頻繁にあり、祝宴は「めちゃ食い」傾向にあったからです。
目標を高く掲げて
◆ エレミヤ書43-45
◆ ヘブル5
完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
―Ⅱコリント13:11
娘の家族が帰省したとき、彼女の夫、別の義理の息子、そして息子と4人で出かけました。女性たちが買い物をしている間、男たちは射撃場に行き、ピストルを2丁レンタルして的を狙いました。しばらく撃っていると、片方のピストルは、照準が低すぎることに気づきました。この照準で狙うと、的の下の方に弾が当たります。ですから、的の真ん中に命中させるためには、高いところを狙わなければなりませんでした。
いますぐ、行いなさい
◆ エレミヤ書37-39
◆ ヘブル3
「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。―ヘブル3:13
数年前、友だちが面白い自己啓発 セミナーに連れて行ってくれました。焦点はお金や成功を得ることではありません。自分の個性や人生の意味、目的などを理解できるように各人を導き、その後で、より良い生き方のために役に立つ方法を教えてくれました。その中で今も覚えているモットーは「今すぐ、行いなさい」というものです。というのは、やらなければならないことを先伸ばしするためには、それを即実行するのと同じだけの労力が必要だから、というのです。ずるずると先延ばしするなら、パワーを奪われます。一方で、ものごとをやり遂げたときには、すがすがしい安堵感が与えられます。
永続する痕跡
◆ エレミヤ書34-36
◆ ヘブル2
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。―マタイ5:16
英国ウェールズのカールレオンは史跡の村です。古代ローマ軍が、英国に侵攻したときに占領した3つの場所のひとつです。ローマ軍の占領は約1,500年前に終わりましたが、その痕跡は今なお、人の目に明らかです。観光客が世界中から訪れて、要塞(ようさい)や兵舎、円形闘技場など、ローマ帝国がウェールズを占領し、世界を支配していた当時をほうふつとさせる遺跡を見てまわります。この村には、15世紀たった今日でさえ、ローマ帝国の痕跡がはっきりと残っています。そのことに、びっくりさせられます。
次の瞬間には
◆ エレミヤ書30-31
◆ ピレモン
私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」
―詩篇30:6
俳優のクリストファー・リーブは、1995年、落馬して下半身不随になりました。彼はこの事故の前、映画で下半身不随の男を演じ、役作りのためにリハビリテーション施設を訪れていました。リーブはそこを出るとき、「あれが自分でなくて、本当に良かった」といつも言っていたそうです。リーブは事故の後、その発言を悔やんでいると言います。「私は、苦しんでいる人たちから自分を隔離させていました。次の瞬間、自分も同じ状態になる可能性があるとは、まったく気づいていませんでした。」残念なことに彼の場合、それが現実になったのです。
親切な行為
◆ エレミヤ書27-29
◆ テトス3
あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
― ルカ10:33
私たちは愛の少ない者です。なぜでしょう。親切にできない最大の理由のひとつは、相手の値踏みをするからです。私たちには「私の親切を受けるにふさわしい人とは、かれこれしかじかの人」という固定観念があります。イエスに「では、私の隣人とは、だれのことですか」と質問した人がいました(ルカ10:29)。つまり、「私の親切を受けるのにふさわしい人は誰ですか」という質問です。イエスはその答として、たとえ話をなさいました。