究極の競争者の原則
それでは、イエス・キリストに従う競争者の姿とはどんなものだろう。それは、イエス・キリストご自身のような姿だ。ただし、クリスチャンによって作り上げられた滅菌消毒をしたような清いイメージ、またはクリスチャンでない人々によってイメージされる白く長い衣をゆるやかにまとい、実社会には無関心で、孤立したおとなしい優男というイエス・キリストではない。これらのイメージは、実際の福音の物語とかけ離れている。例えば、祈りの家であるべき宮をまるで盗人の隠れ家のように扱った者らを追い払ったりしたイエスは、実に荒々しい。また、ユダヤの不毛の荒れ地を歩き、40日間も断食を続け、敵と真正面にぶつかったのだから、頑強そのものだ。
歴史に名高い、善と悪の闘いの場面を考えると、あることに気付く。この対決に、イエスは応援もなく、一人で立ち向かったわけではない。主イエスと敵対者との決闘の直前、イエスは、天から響く父なる神の御声によって、聖なる業を奨励された。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)という神の御声が下った。
だから、誘惑が起こった時、イエスは敵に立ち向かう強靭(きょうじん)さを示されたばかりか、競争の世界でも品位を保って生きるとはどういうことか、身を持って教えてくださったのだ。
それでは、イエスを敗北させようとしたサタンの試みについて、マタイはどのように述べているか、見てみよう。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、 神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた (マタイ4:1-11)。
このように、試みる者は、3度もイエスを誘惑しようとした。しかし3度とも、イエスは旧約聖書の申命記から適切な聖句を引用して、敵に立ち向かった。その過程で、イエスは誘惑に打ち勝っただけでなく、名誉を持って、競争社会を生き抜くための原則を教えてくださった。
誰もパンだけで生きてはいけない
悪魔は最初、石をパンに変えることで神の子であると実証するよう、イエスに迫った。 それに対してイエスは、どんな競争者の人生をも光り輝くものとするような究極の自信で応じられた。イエスは、こう言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(マタイ4:4、申命記8:3)。
これは昔、神の民が40年もの間、砂漠や荒れ野をさまよったとき、神ご自身から必要なものを民に与えてくださったことを指している。
その時の原則は、今も変わらない。私たちは、自分の力だけで生きているのではない。 また、食べ物や金の力だけでは生きられない。私たちは、神のご慈悲や恵みのお陰で、減ってゆく限りある資源の世の中に生きている。その知識こそが、勝ち負けに左右されない、私たちの自信なのだ。
神の恵みに対して付け上がってはいけない
サタンの二つ目の誘惑は、神殿の尖塔上で繰り広げられた。神とのきずなを証明するために、イエスに飛び降りるよう、サタンがささやいた。要約すれば、「あなたが本当に人々の待ち焦がれた救い主、メシヤなんだったら、飛び降りて実証しなさいよ」と言ったわけだ。「神の子なんだったら、父なる神が天使を送って守ってくださるはずでしょう。」
イエスはそれに対して、「あなたの神である主を試みてはならない」(マタイ4:7、 申命記6:16)と反論された。この引用は、ユダヤの法律の中で、モーセがイスラエルの民に対して、他の邪教の神に従っておきながら、同時に真の神の恵みを受けられると間違っても考えるな、と教えた部分だ。
その原則は、私たちの社会にも当てはまる。闘いの熱気の中で、「自分のことは自分で守らなきゃ」という悪魔のささやきに耳を傾けてしまってはいけない。
「自分をちゃんと守らなきゃ、誰もあんたの面倒なんか見てくれないんだから。大丈夫、ちょっといい加減にやったり、ルール違反したぐらい。どうせ、みんなやってるんだから。それに、神さまだってわかってくれるよ。本当に愛の神なんだったら、許してくれるってば」というのが悪魔のささやきだ。
しかし、そんなやり方が、神に対して忠実でないこと、自信と名誉を掲げて競争社会を歩んでいく生き方とはかけ離れていることを、イエスは教えてくださった。
神のみを信頼し、礼拝せよ
サタンの三つめの誘惑は、一番大きい誘惑だ。自分にひれ伏して拝めば、闘うこともなく、世界を手にすることができる、とサタンは言った。
しかし、またもやイエスは神の深い知恵とみことばだけに頼って、この誘惑をはねのけた。そして、こう言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10、申命記6:13)。
人生で特に激しい競争におかれる時期には、私たちは勝利とか、金銭、名声などといったものをついつい、神のようにあがめてしまう。世間は敗者に冷たいと知っているからだ。だから、世間で神のように扱われるものにひれ伏し、それを拝んでしまう。
しかし、愛に満ちた天の父なる神は、自分の都合に合わせて、神を信頼したり、しなかったりしてはいけない、といさめてくださる。
イエスは、主なる神のみを拝み、至高の誉れを神のみにささげることが、最大の自信につながることを教えてくださる。
どこもかしこも競争だらけ
「どうもMacです」「こんにちはパソコンです」というせりふで始まる、ユーモラスなCMを見たことがあるだろう。とても人気のCMシリーズだ。このシリーズが素晴らしいのは、MicrosoftとAppleという世界的な二大パソコン企業の熾烈(しれつ)な闘いをユーモラスに描写していることだ。
楽しく笑える広告の裏にも、非常に真剣な競争の世界がある。 実際、限られた資源をめぐる争いは、21世紀の私たちが直面する現実だ。
国際的にみると、石油や食物など主要商品を手に入れるために、各国が競い合うようになってきたのは明らかだ。以前は、ものの考え方や国境、生活様式などの違いが、いつも国同士の争いのもとになり、戦場での闘いにつながった。しかし、地球の資源が減っていく中、国家間の競争には新たな側面が表れてきた。
国内では、政治的な競争がある。ライバル同士が政権を取ろうとやっきになって戦う。国民の信頼を得て票を勝ち取るために、独自の政策の利点をあれこれと述べ立てる。選挙というものは、実に個人的感情に左右される厳しい競争の一例だろう。
各家庭の状況、つまり私たちの実生活に置き換えて考えてみよう。毎日のいろいろな場面で、競争が起こっている。例えば、就職活動、成績アップ、入試など、どれをとってもそこには競争がある。また、普段買い物をする店は、一円でも多くもうけるために競争している。それから、私たちは、注目を浴びたり、 好意や愛情を受けたりするために競争する。
私たちは、遊びの場でさえ競争している、草野球では、優勝トロフィーをめぐって競争する。
スポーツチームのファンたちもそうだ。よく考えてみれば、自分と自分のお気に入りのチームをつなぐ関係は単に住んでいる場所だけなのに、相手チームとの応援合戦がすさまじい闘いに様変わりしてしまうことがある。その一例が2008年、ニューヨーク・ヤンキースのファンが、ボストン・レッドソックスのファンとけんかになり、相手を車でひき殺してしまった事件だ。
日常生活において、 競争を無視することはできない。
そんな中で、私たちには、競争の準備ができているだろうか。日々激しくなっていく競争社会と向き合う準備ができているだろうか。競争の価値や利点、欠点、社会道徳的な問題点についてじっくりと考えるひとときを持ったことがあるだろうか。どうしたら、神にも人にも恥じることなく自信を持って、この競争社会を生き抜くことができるか、今こそ、考えてみるべきではないだろうか。
競争とは何か
1957年10月4日、ある出来事が、世界の二大グループに属する人々を真っ向から対立させ、激しい競争に落とし込んだ。この二大グループとは、二大国のことだ。国家の統治や哲学的な違いから、すでに対立関係にあったが、この事件の発生によって、両国は新たな全面競争の時代を迎えた。
今から50年以上も前のその日、当時のソビエト社会主義共和国連邦とアメリカ合衆国の、野心的な競争が始まった。ソビエトが史上初の人工衛星、スプートニクの大気圏外への打ち上げに成功したことにアメリカ政府が反応した。そして、両国間の競争、つまり、「宇宙開発競争」の幕開けとなった。
ソ連が打ち上げた83.6kgの人工衛星がアメリカ上空を通過した時、アメリカ国民は、ビーっという不思議な飛行音を短波ラジオで聞いた。そして、ソビエトに対する強烈な競争心をかき立てられた。アメリカ国民は、ソ連が技術的に勝っており、 上空からスパイ活動を行っているのかもしれないと恐れた。ソ連の発射する武器が、とうとうアメリカ大陸にまで届くようになったらしい、と考えたようだ。
ソビエトに脅威を感じるアメリカが、技術で遅れを取っていると気付いた時点で、 ソビエトに追いつけ追い越せの宇宙開発競争が始まった。スプートニクの事件は、競争のいろいろな面を浮き彫りにしている。第一に、競争が成り立つためには、通常、敵対する二者が必要だという点が挙げられる。
スプートニク事件以前のアメリカでは、(NASAが設置される以前の話だが)宇宙開発計画に関わる政府の官僚たちの中にソビエトの人工衛星構築を真面目に受け止める者はいなかった。当時のアメリカで競争を語るとき、ソビエトは過小評価されていた。アメリカは、よもや先を越されることはないだろうとのんびり構えていたのだ。しかし、ソ連が宇宙計画の成功を発表するやいなや、言い換えれば、米国民が共産主義国の脅威を感じるやいなや、アメリカは素早く行動に出た。スプートニクの打ち上げで、以前にはなかった競争状態が発生した。
ほとんどの競争では、最終的に手にするものを争って二者が闘う。目指すものは、スポーツならば優勝トロフィー、ビジネスならば顧客の獲得や金もうけ、政治ならば政権、宇宙開発競争ならば国際戦略上での優位な立場だ。
しかし、競争には、必ずしも対立する相手が存在するというわけではない。時には、敵の見えない孤独な競争もある。例えば、あなたが営業マンなら、これまでの自分の販売成績と競っている。もし、走るのが趣味だったら、自己ベストを上げるために、ストップウォッチと競争するだろう。つまり、あなたは、対戦相手無しで競争している。それは、宇宙を舞台にしたけんか騒ぎに、アメリカが飛びこむ以前のソビエトの姿に似ている。
二つ目の特徴は、競争状態は、焦点を明らかにする、つまり「目標」を生みだすことだ。そして、目標達成のためには、こんなにも必要だろうかと思われるほど努力する。スプートニク事件以前のアメリカには、宇宙ロケットの開発に従事する人たちはいたものの、効果的な運用に対しては、軍部関係者の間にさまざまな意見の対立があった。しかし、ソビエトの打ち上げに驚いたアメリカは、巻き返しを狙うため、中央機関を設けて活動し、目的達成に注力し始めた。その目標とは、もちろん宇宙開発技術でソビエトをしのぐことだ。そうして、米航空宇宙局(NASA)は、アメリカ全土の知力を中央に集中させた。その後、ジョン・F・ケネディ大統領によって、あらゆる小規模の目標が一つの偉大なる目標に結集されたのだ。1961年5月25日、ケネディ大統領は、「我が国は、今後10年以内に人類を月面に着陸させ、安全に地球へ帰還させるという目標達成のために全力を傾けて取り組むべきだと考える」と大胆に宣言した。
さて、第三に、競争には「改善への動機」を生みだすという特質がある。この時点でアメリカは、現状に甘んじてはいられなくなっていた。NASAの設立だけでなく、一般庶民のレベルに関してもそうだ。アメリカ全土の学校に対し、数学や科学の教育を強化するように指導が出された。なぜなら、ソ連のスプートニク打ち上げ成功は、 教育レベルにおいてもアメリカがソビエトに遅れを取っている証拠ではないか、と危惧したからだ。
この競争の結果は、誰にも予想できないものだった。実際、国と国とが競争関係に陥ったらどんな結末を迎えることになるか、思い描くことも不可能だった。一般には、人を乗せたアメリカ製宇宙船の月面着陸が、米ソ宇宙開発競争におけるアメリカの成功を示すものだと考えられている。けれども、実際の成果は、それ以上のものだった。
最終的に、この競争は逆の結果、つまり協力関係を誕生させた。1975年にアメリカとロシアの宇宙飛行士らが、大気圏外空間で握手するに至ったのだ。宇宙開発競争は、歳月を経てさまざまな開発や発見をもたらし、月面に立つこと自体の価値よりもっと大きな影響を人類に与えることとなった。
偉大なる競争は、ふとしたきっかけから、次のようなものにつながった。インターネットの前身ともいえるARPANET(アーパネット)、超音波エコー、GPSシステム、そしてインスタントコーヒーなどがある。このように競争は多くの場合、思いがけない結果を生みだす。
だから競争とは、目標のため、または限りある資源を手にするための闘いであり、多大な努力と自己改善が要求される。
競争自体は、良いものでも悪いものでもない。目標を達成しようとする動機や方法次第で、大きな益をもたらすこともあれば、大きな害につながることもある。
競争には結果がある。思い通りの結果もあれば、予想外の結果もある。だから、慎重に参加すべきだ。
競争の危険な面
競争願望は、放っておけば紛争になって、ごうごうと燃え盛る炎のように広がっていく。だからといって、競争を避けるべきだというのではない。しかし、人を押しのけたり、自分の人格(人としてのあるべき姿)を失ったりしても勝ちたいと願うようなら、自分の動機を見直す思慮深さが必要だ。
競争の危険な面をきちんと考察することで、競争の負の面を避けることができる。
貪欲という危険
誰だって給料をもらえばうれしい。これは自分がつぎ込んだ時間や努力、技術、献身などに対する金銭的な報酬だ。同じ給料をもらうにしても、ある人たちにとっては、うれしさの度合いもけた違いだろう。この競争社会において、一部の人は、信じられないほどの金持ちになるのだ。例えば、ある服飾関係企業のCEOは、 2007年に2,600万ドル(約24億5,200万円)も稼いだそうだ。これは、単純計算で毎月の給与明細が約2億円というのと同じだ。この人は、競合各社を徹底的に打ちのめした報酬として、巨額の給料をもらっている、といってもよいだろう。
これほどもうける人がいると、資本主義社会には「貪欲(どんよく)」という危険が存在すると、改めて気づかされる。最低賃金で働く人が、2千年働き続けてようやく手にするのと同じ額の報酬を、たったの一年で稼ぐ企業の野獣たち。彼らの心がどんなものか、私たちはもちろん、知る由もない。しかし、競争の世界で貪欲が台頭することは知っている。
それでは、 スポーツ界の競争について考えてみよう。 ここでも貪欲さと競争心がごちゃまぜになった例がある。あるメジャーリーグの投手は、「僕に大金を払って、失望した人はいないはずだ」と発言した。このように、より多い報酬を求めてばかりいると、いつか人間は、契約交渉に対する考え方までおかしくなってくるのかもしれない。
プロスポーツ選手向けのある雑誌は、何千万円もする腕時計や一泊数百万円のリゾートホテルの特集などを組む。こうして裕福な選手たちの貪欲さを刺激して、売り上げを伸ばそうとするのだ。
もちろん、金持ち選手たちの多くは、貪欲さを動機にしてスポーツをやっているわけではない、と反論するだろう。そうかもしれないが、選手とチームの間で繰り広げられる契約交渉をいくつか取り上げれば、「異常なまでの金銭的欲求」という「貪欲さ」の定義が、ある程度当てはまると一目でわかる。
人は競争によって、今以上の何かを手に入れようとするが、これは、お金に限ったことではない。例えば会社員なら、より高い役職、より良い待遇、より長い有給休暇などの優位性を得ようとする競争がある。フェアな姿勢を求められるスポーツの世界でさえ、プレーする時間やコーチに注目されることに貪欲になる。また試合中は、観客の称賛を得ることでやっきになる。
ルール違反の誘惑
近年、競争と言えばルール違反をして汚名を残した人たちを思い浮かべる、というのが大方のところだ。
ビジネスの世界では、裕福な企業のトップが罪を犯して、重役室から一転、刑務所の独房行きになってしまった例もある。競争で一歩先を行こうとすると、法律上の一線がぼやけてしまうことがあり(多分、先にも述べた貪欲さのせいだろうか)、優位な立場を得ようとして不正行為を働いてしまうことがある。スポーツ界では、選手たちが身体能力を飛躍させる薬物を使って、使わない選手たちを出し抜いたというスキャンダルが絶えない。彼らは、正々堂々とプレーするライバル選手たちの裏をかき、ずるいやり方で勝とうとした。
競争者たちは、周知のリーグ規則や明文化された法律があったにもかかわらず、一線を越えてしまったのだ。彼らは競争したが、競争自体がこのような違法行為を招いたのではない。また競争が告発のもとだったわけでもない。彼らは、正当な競争をせず、抜けがけを選んだ。問題の原因は、彼らが置かれていた状況ではない。彼らが判断を誤ったことだ。
不正行為があまりにも当たり前になってしまった一部のスポーツでは、「ズルくない奴はやる気がない」とまで言われる。これでは、ルールを守って戦おうとする選手たちの負担がさらに大きくなってしまう。
競争に勝った時の報酬があまりにも大きいので、ルールを曲げようが、 不当であろうが、とにかく優位な立場を得ようという衝動に、ついかられてしまう。
優先順位を間違える危険性
フランシス・A・シェーファー財団のウド・ミデルマンによると、スポーツは多くの人にとって、人生で最も魅力を感じるものになってきたそうだ。
頑張って競争していると、こうなりやすい。男女を問わず、競争したり、人が競争するのを応援したりするのが好きな人は大抵、非常に勝気な性格だ。大切な人との時間や、お互いを尊重した付き合いや、競争よりもっと重要な活動に関わることを犠牲にしても、 とにかく成功したいと考えるようになる。
ビジネスマンのグレッグ・ブルゴンドの説明によると、競争の真っただ中にいる人は、まるで勝利自体が神でもあるかのように、どんなものでも平気で犠牲にできるそうだ。彼はこう書いている。
「私の娘は、高校の時、バスケットボールの試合を見に来て欲しいと、何度も私に言ったものです。当時、娘は学校を代表するチアリーダーでした。そして私は、ある企業のゼネラルマネージャーでした。娘に対して、どうしても行けないと、もっともらしい理由をいろいろ並べ立てたのを覚えています。しかし、それらが何だったのか、今では思い出せません。覚えているのは、行ってやれなかったという事実だけです。その頃の私にとって、業界における自分の影響力より大切なものはありませんでした。」
さて、競争の場で、自分の意見だけが正しいと思って行動すると、大恥をかく。レフリーの判定に逆らって、立派なスーツを着込んだ大人が、かんしゃくを起こした子供のように振る舞うのを見て、がっかりした経験は誰にでもある。選手やコーチ、マネージャーが、試合が思い通りに運ばないことがあったからといって、わめいたり、暴れ狂ったり、腹の底から怒りを吐き出しているのをYouTube(ユーチューブ)で見たことがあるだろう。ビジネスや教会の役員会でもそうだ。メンバーたちが、自分の意見に固執したり、言い争ったり、恨みがましく意見をひっこめたりした様子を聞いたことがあるだろう。
競争に関わったがために、もっと良いことに関われない場合もある。例えば、野球観戦に夢中になること自体には何の問題もないが、一日に何時間もそれにかまけて、家族としての責任をないがしろにしたり、もっと価値のあることに時間をかけないような人は、優先順位を間違えている。試合観戦や応援にのめり込んだスポーツ・ファンが、日常生活をおろそかにし、家族との大切な時間を失っているという例が、実に多い。
競争は放っておくと、まるで悪い薬のように、私たちの心身をむしばんでいき、秩序正しい生活のリズムを乱し、優先順位を狂わせてしまう。そして、自分の人生をコントロールできなくなってしまう。
競争の価値と有益性
競争は、人生のように逆説に満ちている。競争は危険だ。そう考えると、自分を駄目にしたくないので、営業成績表やスコアボードなど関係のない世界で生きればよいと言うかもしれない。しかし、競争から良い結果を生みだした例もある。ここで幾つか、人生におけるぎりぎりの闘いで、成功を収めた例をみてみよう。
競争は感動を与えてくれる
競争に明け暮れている人々の中から、深く心を打つ実話が生まれる。どうしようもない状況を克服したり、自分の過去の過ちがもたらした人生のどん底から這い上がったりして、遂には大きな成功をおさめた物語に深く感動した経験は、一度や二度ではないだろう。
メジャーリーグの外野手、ジョシュ・ハミルトンは、その典型だ。1999年のこと、ハミルトンは高校生野手として、ドラフト全米一位で指名された。しかし、ハミルトンはその後、酒を飲み、麻薬に手を出し、自分の人生の破滅に向かってありとあらゆることをやった。そんな彼を信じる人々がいた。彼の妻、祖母、そしてあるコーチだ。彼らの祈りと影響でハミルトンは立ち直っていった。遂にある日、 彼は、 自分の人生を神にささげるという決心をした。
ようやく、彼の人生は好転を始めた。そして2007年、メジャーリーグに戻る機会を得た。酒と薬物依存から完全に解放され、信仰によって強められたハミルトンは、シンシナティ・レッズの選手として、シーズン19本のホームランを打った。
このような競争の物語に、私たちは感動する。心温まる話は、悩み多き世の中に希望をくれる。他の例をあげると、デイヴ・トーマスは、無一文から世界的なフード・チェーンのウェンディーズを築き上げた。また、若い野球選手のジム・アボットは、障害を乗り越えて、隻腕(せきわん)投手としてメジャーリーグで活躍した。バスケットボール選手のマグジー・ボーグスは、身長わずか160cmだが、NBAで活躍中だ。
このように、競い合い、成功に至った者たちが手にした価値とは、単なる個人的な勝利の喜びをはるかに上回るものだ。素晴らしい競争をする者は、内面的、または外面的な障害を乗り越える方法を見つけねばならない。かくして、彼らの物語は、自分の行く手を阻む障壁を克服する勇気と励ましを与えてくれる。
競争はチームワークを教えてくれる
さて、企業は、業績の良い社員たちを本社から離れた別荘地などにわざわざ行かせて、ケーキを一緒に作らせたり、ゲームやスポーツ競技をさせたりするが、それは一体何故だろう。企業が、社員たちをチーム形成活動に参加させるのは、どうしてか。それは、競争社会においてどんなに才能があったとしても、チームとして働いてこそ、より大きな成果を収められるからだ。
ほとんどの場合、競争が協力を余儀なくさせる。自分の才能や技術を、他人の才能や技術と組み合わせて仕事を成し遂げざるを得なくする。
一匹狼が競争に勝つことはできない。たった一人でいろいろな試練に立ち向かい、切り抜けていく、というやり方には無理がある。チームを作り、各個人の才能をうまく組み合わせなければならない。
フード・フランチャイズ会社の中で最も成功している某企業は、世界中に3万軒以上の店舗を抱えており、競争の意味をよく知っている。この企業の歴史は50年以上だが、その間には、何百という競争相手が、現れては消えていった。その中で一社として、彼らのような成功を手に入れる者はなかった。この会社の運営方法を詳しく見れば、従業員の資質として一番大切なことにチームワークが掲げられていることがわかる。それは、バーガーをくるりとひっくり返して焼く仕事だろうが、本部で事業運営に関わっていようが、同じだ。このファーストフード企業のCEOは、「うちに入社する社員は皆、人生で大切なスキルを学びます。そのひとつはチームワークです」という。チームワークは、価値の高い、尊敬に値するもので、良い競争から派生する。また、そんなチームを率いるリーダーたちは、人々が一体となって働けば、たくさんの個人がばらばらに働くより何倍もの結果を生みだす、 ということをよく理解している。
競争は、各個人の可能性を引き出してくれる
高校でスポーツをやるのは、ある意味で試練なのに、親はなぜ、それを子供に許すのか。
とにかく、スポーツは楽じゃない。若くても身体が疲れきってしまうトレーニングもある。それも、シーズンが到来するにつれてよりハードになる。また、精神的にも厳しい。なぜなら学生選手は、変化する状況の中で素早く考えて対応し、勝てるように、とても複雑なことを教え込まれるからだ。
最後に、若い彼らは精神的なチャレンジにも直面する。コーチがどのように考えているか理解し、チームメイトとうまくやるように努力し、勝ったり負けたりの葛藤(かっとう)を消化しなければならない。
スポーツを通し、適切で注意深い指導を受けることによって、生きていくために必要な精神的、肉体的、心理的なスキルを磨く良い機会が与えられる。だから、親は子供にスポーツをさせるのだ。
例えば私の場合、学生時代にスポーツで競ったことが、後の人生の成功に、大きく貢献した。大学のバスケットボールチームに4年間所属したことは、自分の欠点を乗り越えるのを助け、教えたり、指導したりする職業に進むことがふさわしいと思わせてくれた。
私はコーチに精神的な強さを求められたため、難しい状況を避けて通ろうとする、若者特有の悪い癖がつかずに済んだ。在学中に身体を鍛えたことで、その後もずっとそうできた。また、多くの人が見ているコートの上で成功する機会を与えられたおかげで、恥ずかしがり屋で無口な自分の殻を抜け出すことができた。学生バスケットボールの激しい競争が私の心身を研ぎ澄まし、神に用いて頂けるような人間になるよう後押ししてくれたのだということが、何年もたってわかってきた。
尊い競争とは
アメリカの有名スポーツ団体は、以下のような方針を掲げている。そのグループの目指すところは、「健全な社会性、鍛練された人格、チームワーク、そして身体の健康を育むよう支援する」ことだ。
また、次のようにも公約している。「我々は神を信頼し、祖国を愛し、我が国の法令を守る。公正に行動し、勝利に向かって努力するが、勝ち負けに関わらず、最善を尽くす。」
高い評価を受けるこの団体が掲げる方針に、賛同しない人はほとんどいないだろう。その価値観は社会性、秩序、チームワーク、唯一神、愛国心、フェアプレイ、ベストを尽くすこと。
これは、野球の米リトルリーグが掲げる社会的使命の宣言だ。これを読めば、非宗教的な団体が競争の場面で求める優秀さと、キリスト教的見解に立った「高尚な」質の高い競争というものに、さほど違いがないことがわかる。
これは、競争と宗教の関係について、一度も考えたことがない人にとっては、重要な点かもしれない。公認の規則や決まりに従って競争する場面では、フェアプレイとか、すがすがしさとかが敬われる。多くの人々が知っているが、その理由のわかっている人は少ないかもしれない。実は、フェアプレイの根本にあるのは、人生の基本的方針や価値観を、世俗的なライン以上のところに置く、という考え方なのだ。
この論理に従えば、善良であることや公正であることは生来、人間に備わっている資質かもしれない、と考えられる。そのように神が人間の心に植えつけてくださったものを、競争者たちが拒むとき、人を欺くとか、人間性を欠くような行動に至るのではないだろうか。
例えば次の聖書からの引用について、ちょっと考えてみよう。全ての人々に善と悪の違いがわかる能力が与えられた、と書いてある。
使徒パウロがローマ人への手紙2章15節にこう書いている。「彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。」聖書の解説者であるウィリアム・ヘンドリクセン氏の説明によると、「『神は』人に善と悪という分別の技能を授けた」そうだ。ヘンドリクセンは、また人間というものは、「自発的に律法(神の法)によって求められることを行う」ものだという。例えば、人がその妻や子供に対して優しくするとか、貧しい人への思いやりを持っているとか、正直であろうとすることなどだ。また、競争において公正さと誠実さを保とうとする、ということもそうだ。
だからこそ、(例えば先述のリトルリーグの方針のように)道徳的で理にかなった競争の考え方から、聖書に示され大切に守られてきた原則によってしっかり裏打ちされた競争の考え方に移行するのは、大きな一歩ではない。
時を越えて大切に守られる競争の原則の根源を調べていけば、その選手が宗教的であろうと、非宗教的であろうと、実用的で役に立つアドバイスを聖書の知恵から得ることができる。聖書を開けば、今まで見えなかったものが見えて公正な試合をする勇気が与えられるだけでなく、競争社会の中で、尊厳をもって生きていくために必要な、永遠の助けと支えの源を信頼するべき理由を知ることができる。
自信をもって競争するために
公正な競争の基準が、ただ単に規則を並べただけではないことがわかるようになれば、つまり、基準とは宇宙の創造主の知恵と特性に基づいたガイドラインを表すものだとわかれば、選手たちは、自信をもって競争するとはどういうことか、理解できるようになる。そうすれば、自分の幸せが契約や議論、または試合の勝ち負けに左右されるのではないことを知った上で、競争社会を生き抜いていける、という事実を共に発見することができるはずだ。
限りある資源の奪い合いに集中するよりも、私たちを守ってくださる神の果てしないお力に目を向ければ、私たちは、自分だけでなく、皆にとって良い形の競争ができるようになる。
アメフトの競争は獰猛(どうもう)なまでに激しいが、その真っただ中で尊厳をもって生きていくとはどういうことか、ある監督はよく知っている。彼の名は、トニー・ダンジー。インディアナポリス・コルツを2007年のスーパーボウルで優勝に導いた男だ。NFLの監督というキャリアを通して、ダンジー氏はプロフットボール界の重圧のただ中にいるクリスチャンであることが、自分の生き方だと自覚していた。それゆえに、クリスチャンを懐疑的な目で見る周囲に対して、例えば冷静な振る舞いや誠実で穏やかな言葉遣いなどを通して、信仰を持って生きることがただ単に「OK」なだけではなく、激しい競争社会を生き抜くためには、むしろ最適なのだということを示している。ダンジー氏は、「静かなる力」というベストセラー著書の紹介インタビューの中でこう語っている。「主があなたをどこに置かれようと、あなたが今居るその社会で、インパクトを与えることができるのです。」
勝敗だけにとらわれずに自分のベストを尽くすことが可能だ、ということをあなたの競い方で示せば、あなたはあなたのいる社会で大きな影響を与えることができる。
私たちと同じように、ダンジー氏だって完全ではない。しかし彼は、自分の良心や品性を、一時的な成功という偽りの神にささげるようなことはしない、と固く決心した一人だ。試合の場で競技を超越した信仰を示すことにより、ダンジー氏は上から力を与えられた。彼はその力によって、試合を大切にしながらも、より高いものを目指すことができる。
尊厳を持って競争する
伝説のNFLの監督、ヴィンス・ロンバルディ氏は、「勝つのが全て、じゃない。勝つことしかない」ということばで有名だ。その言葉の意味については、いろいろ議論があるが、彼の発言は一般に、勝ち負けではなく試合の仕方が最も大切なのだ、という方針に真っ向から対立する考え方として引き合いに出される。勝つことが全て、という考え方は、「勝つことではなく、(試合に)参加することに意義がある」という近代オリンピックの信条にも反する。
ここで、勝つためにベストを尽くし、結果がどうであれ、良心や誇りや信頼を保つことが、自分や回りの人々にとってどれだけ大切か、注意深く考えるべきだろう。試合や人生の様々な場面で、勝つためにできる限りのことをしなければ、信仰を持つ人々にとって、自分や競争相手、そして神を敬うことにはならない。 勝つことは全てではないが、試合や人生のチャレンジを投げ出すのは、尊敬に値しない。
勝つために走れ
コリント人への手紙第一9章24節で、パウロは当時の読者に分かりやすい例話を使って話している。それは、現代のオリンピックのようなイベントで、イストミア祭と呼ばれる。このような競争環境を念頭に、パウロは「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(24節)と書いたのだ。
イストミア祭の出場選手達は、競争に勝つため一生懸命訓練する中で、二つのことを学んだ。第一に、優勝者はたった一人だということ。第二に、賞品は、どんなものでもいずれ朽ちてしまうということだ。
パウロは、朽ちることのない永遠の賞を勝ち取るために、人生のレースを走ることがいかに大切か、語っている。イストミア祭の選手達は、「朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(25節)とパウロは書いている。
イストミア祭の選手の例とパウロが示した霊的な応用の例に共通することは、勝つための努力だ。そして、読者に対し、一生懸命競争するように促している。全ての競争相手に対し、またあらゆる障害に対して競争し、神に認めて頂くという目的に向かって走れ、というのだ。公正なレースでは、事前に勝利が保証されている人は誰もいない。ただ、怠け者が勝つことはない。自分を過信する選手や、言い訳ばかりで全力を尽くさない選手に勝利が与えられることもないだろう。オリンピック、ビジネス、または受験と同じことが、信仰の偉大なレースにも言える。
強さをもって競争すること
キリスト者の中でも、特に激しい競争の中にいるクリスチャンは、勝利者になるには、 優しすぎるとか、いい人すぎるとか、いろいろな批判を受ける。それに対する反論として、実際、様々な競争において、名誉と誇りを保ちながら勝利を勝ち取ったクリスチャン達の名前を挙げてみよう。
ファーストフード産業の「チックフィレ」社長、トルエット・キャシー。元オリンピック体操選手のメアリー・ルー・レットン。映画やテレビ製作のケン・ウェールズ。クリスチャンは弱いなどという噂を物ともせずに、信仰を持って競争社会に立ち向かってきた人たちのリストは、更に続く。
さて、テモテという名の青年に向かって、パウロはこう書いている。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(IIテモテ1:7)。テモテはどうやら、時々不安でたまらなくなることがあったようだ。それは、パウロがコリント人への手紙第一の中で、コリントの教会の人々に言った次のような表現の中に見受けられる。「テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください」(16:10)。テモテへの手紙第二の中でパウロは、神がテモテにお与えになった仕事をきちんとやらなければならないと告げている。これを聖書解説者のヘンドリクセンは、「自分の不安と立ち向かいなさい」 ということだ、と説明している。また、テモテがそうできたのは、信仰を持つ者の内に住まわれ、力や愛、そして自己修養の源となってくださる神の聖霊のおかげだ。
パウロの励ましの言葉は、テモテのみならず、私たちにも語りかけられている。神が、 神を信じる全ての人々に、いつでも勇気の霊を与えてくださる、ということに気付かせてくれる言葉だ。
ピリピ人への手紙に、パウロはこう書いている。「私は、私を強くしてくださる方 (キリスト)によって、どんなことでもできるのです」(4:13)。彼が言いたかったのは、神が、神の民に何でもやりたい放題させてくださるということではない。パウロは、富める時も、貧しい時も、どんな時でもパウロ自身の中で、またパウロを通して行われる神の御業に満足することを学んだ、と言っている。
これは、私たちに何を教えているのだろうか。私たちのいのちと力の源は、日々の勝敗の結果ではなく、神にある、ということだ。世界の始まりから今日まで、競争の真っただ中にあっても神を信頼し、敬う人々は、変化の激しい状況の中にさえ、恵みと希望を見いだしてきた。
良い勝利者になること
自分の人生とか幸せとか存在価値とかは、全て勝利だけにかかっていると考える人に出会うことがある。彼らにとっての神とは、勝つことに他ならない。だから、品位をもって負けを認めることがなかなかできない。負けた時、言い訳をしたり、他人を責めたり、すねたり、フェアじゃないと不平を言ったりする。こんな選手は、ファンをがっかりさせ、競争自体をつまらないものにしてしまう。しかし、彼らの気持ちや痛みがわかるような気もする。私たちだって、負ける悔しさは、十分経験している。
それよりもっと問題なのは、品位をもって勝つことを知らない人々だ。もし、私たちもそんな一人だったら、自分の技術や努力の程度を測るために競争しているにすぎず、競争は、神がくださった大切な機会だということを理解していない可能性が高い。その結果、人をがっかりさせたり、勝利にうぬぼれたりして、競争そのものの価値を下げてしまうことだろう。
そんな人間になるより、パウロと共に次のように言えた方がよっぽどいい。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)。
このように満ち足りた心を持っていれば、勝ったときの喜びは恵みにあふれ、負けたときの失望の痛みは和らげられる。その根っこにある確信とは、次のようなものだ。本当に大切なことは、どんな良い物も、どんな良い経験もすべては神からの贈り物だと気付くことだ。
謙虚さをもって競争すること
2003年のこと、私の娘、メリッサの通っていた高校が、メリッサ・ブラノン記念ソフトボール場のそばに、若くして亡くなった彼女を偲ぶ銘板をかけたいと言って来た時、私たちは次のような聖句を入れてください、とお願いした。それは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い(なさい)」(エペソ4:2)というものだ。学生スポーツの選手として、彼女はそんな風に競争した。一般の競争でよくみられるプライドや敵対心とは、全く対照的なやり方だ。ラドヤード・キプリングの有名な詩、「IF(もしも)」のなかに、「謙虚で優しい勝利者は、勝利と惨敗に出くわした時、どちらの虚像にも全く同じように接することができる」とある。こういう勝利者の正しい態度について、詩の後半にはこう描かれている。「徳を保ちながら大衆と話し、庶民性を失わずに王達と並んで歩ける」。良き勝利者は、勝っても負けても、同じ態度だ。キリストのような謙虚さと、辛抱強さ、愛をもって生きている。
公正・誠実に競争すること
人生が勝ち負けで決まるわけではないことをよく知っているならば、神を信頼しているという姿勢を貫くことができる。
それと対照的に、どうしようもない負け犬たちと言えば、ここ何十年を振り返って、名誉やフェアプレイより勝利に固執した人たちだ。
例えば、スポーツ界の例(メダルを勝ち取った後に、ドーピングが発覚したオリンピック選手たち)や、ビジネス界の例(大金持ちになったが、不法行為がばれて捕まり、何億円もが泡と化してしまった者たち)、そして、悲しいかな、教会の例(信仰を礎とする社会で、この上ない尊敬を集めたにも関わらず、スポーツやビジネス界、政界に見られるのと同じような罪の誘惑に負けて失脚した指導者ら)などの例がある。
キリストの使徒パウロが書き残した教えは、あらゆる場面に当てはまる。例えば、「競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」(IIテモテ2:5)。
フェアプレイのルールを守ることは、健全な競争の中核をなす。これは最も重要な部分だ。だからこそ、スポーツ選手のドーピングが大事件として取り上げられるのだ。また、公務員の縁故採用汚職が告発され、罰せられる。また、株のインサイダー取引によって、不法な利益を得た者らに実刑判決が下される。政治においても、選挙違反を防ぐため、念入りな努力がなされる。
人生が、オリンピックやワールドカップ以外のところに見つけられる、という自信が無ければ、大変なことになる。本当に大切なのは、私たちに全てを授けてくださる神を深く信頼していることが明らかになる生き方をすることだ。このことを知っている者には、人生の素晴らしい褒美が待っている。
プロゴルファーのウェンディ・ワードは、そのような神に対する信頼を表す良い例だ。
2000年のこと、マクドナルドLPGAチャンピオンシップで、彼女は、道徳上のジレンマに直面した。トーナメントの最終ホールで、不思議なことが起こった。彼女が打とうと構えた時、パターは少しもボールに触れていないのに、ボールが動いてしまったのだ。それを見た者は一人もいない。
しかしワードは、少しでもボールが動けば、触っていなくともカウントされると知っていた。
クリスチャンの彼女にとって、どうすべきかは明らかだった。彼女は審判員を呼び、状況を説明した。書面の規則通り、審判員は、ワード氏のトータルスコアに一打加えた。そして、彼女のトーナメント成績は、282に終わった。
あの一打が重要だったのだ。あの一打で彼女は、13万3千ドル(約1213万円)分を失ってしまった。
試合後、ワードはこう語っている。「メジャーな試合で優勝できなかったのは、残念でした。でも、神の御前に正しいことをしたと思いますし、それが、私にとって最も大切なことです。」これは、熱気に満ちた競争の真っただ中にあって、真の安心と名誉とは、神の絶えざる力に頼ってこそ手に入れることができると気付いた人の例だ。
ワードは、そのトーナメントで優勝するため、厳しい練習に耐えてきたが、そんな中でも、最も大切なことは、彼女のいのちの源である神を心の底から敬うことだと理解していた。
究極の勝利
荒れ野でのサタンの誘惑は、その3年後、また一連の試みとなって戻ってきた。夜の闇の中、イエスはゲツセマネの園で捕えられる。その後に、この上ない試練が待ち受けていた。イエスは一人ぼっちだ。というのも、「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26:56)からだ。そして、ユダヤ教の指導者らの前で、大祭司カヤパのもとに引き出される。
弁護人がいないイエス対最高議会サンヘドリンという闘いだ。そしてカヤパが、罪状をでっち上げる。イエスの最初の応対は、沈黙だ。偽りの罪状を聞いても、イエスは落ち着いた様子。そこで、大祭司が、イエスに答えるよう命ずる。イエスは、このような悪に対してさえ悪で応じることをせず、全て真実のみを述べられた。
イエスがご自分と神との関係を認められた時、敵対する者たちは、これほどひどい神への冒涜(ぼうとく)はないと衝撃を受けた。そして彼らはイエスの死刑を要求する。
その日、イエスに課せられた試みやでっち上げの罪状は、あたかも、イエスの悲痛な敗北を意味するかのようだった。しかし、聖書の預言が満たされ、父なる神のご計画が全うされるためには、真実を語ることと沈着を失わないことをイエスは悟っておられた。
そしてイエスは、非難する者達にあざけり笑われ、侮辱的な言葉を浴びせられ、暴力的に扱われ、死刑を宣告されながらも、自信をもって対応された。今になってみれば、粗末な十字架上で、耐えがたい苦痛と屈辱に遭いながらも、最後にはご自分が勝利することをイエスがご存知だったのは明らかだ。
そうすると確かに、これは片方にとってアンフェアな競争と考えることができる。イエスに死刑宣告した統治者や死刑執行に関わった者達は、最初からこの闘いに勝てるはずはなかった。
ゴルゴタの丘でのイエスの死は、空前の逆転勝利となった。
イエスが、アリマタヤのヨセフの所有する墓地に埋葬された時、イエスを殺した者達は、 勝利の幻に酔いしれた。しかし、彼らの祝宴は数日と続かない。わずか3日後、イエスは死と敗北の壁を砕き、空前絶後の勝利者としてよみがえった。イエスが墓からよみがえった時、誰でもイエスを信じる者は、代価を払わずに神と和解し、永遠のいのちをいただける、という恵みを勝ち取ったのだ。
さて、虐待や拒絶、極度の苦しみにも関わらず、イエスが勝利をおさめられたという事実をよく考えてみれば、イエスが身を持って示された生き方や、みことば、そして犠牲は、人生の競争における深い洞察を与えてくれるだろう。
競争社会を日々生きていく中にあっても、父なる神との絆を取り戻し、確かなものにしてくださった唯一のお方、イエス・キリストに対して誠実に生きていくことができるように祈ろう。
私たちは、限りある資源を奪い合う競争社会に生きている。だから、日常生活や人生のあらゆる機会を通して、私たちの希望と自信のよりどころは、唯一の神であることを表わそう。どんなチャンスも無駄にすることなく、この神こそ、日々の恵みを与え、将来の究極の勝利を約束してくださると伝えよう。
良い季節
明日は北半球に住んでいる人には春の最初の日、南半球の人には秋の最初の日です。この日、太陽は赤道の真上にあり、世界中で昼夜の時間はほぼ同じ長さです。