安らぎの家
建設会社の人事部に勤務していたときのことです。会社が隣の州の仕事を受注して、作業員たちの通勤時間が往復4時間ほどになりました。私たちは、彼らの負担を軽くするために、現場近くで宿泊施設を確保しましたが、同時に運転手付のワゴン車も手配して自宅通勤の希望者にも備えました。驚いたことに、ほとんどの作業員は自宅通勤を選びました。
その中の一人は、職場で一番気難しい人でした。ところが彼は、別人のような笑顔で最初の夜に帰宅したときのことを嬉しそうに話しました。彼は通勤という選択肢があることを話さず、家族をびっくりさせようと思っていました。案の定、彼が帰ると、妻と4人の息子たちは驚いて大喜びしたのです。後日、彼の妻は社長にお礼の電話をしてきました。そして、家庭が大切であることを分かってくれる会社には、家族一丸となって誠を尽くし、ずっと支えていくつもりだ、と言ったそうです。
イエスは永遠の住まいをあげようと言われましたが(ヨハ14:2)、そのおことばに弟子たちがどれほど慰められたかは、短期間でも自宅に帰ることができなかった人ならわかるでしょう。イエスは、「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(3節)とおっしゃったのですから、これ以上の喜びはありません。イエスとともにいられるのは最大の喜びです。
主イエスとともに住むために私たちは天の我が家に行く、とイエスは約束してくださいました。これは人生最大の慰めです。
デビッド、よくやった
デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。
デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。
デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。
過去の回復
後悔をしたことはないという人はいないでしょう。誤った選択を繰り返し、人生の歯車が狂っていくということがしばしば起こります。そのような状態が続く期間は人それぞれですが、間違った選択をすれば、その影響を心や身体に感じながら生きていかなければならないかもしれません。
私の友人に長年アルコールと薬物を乱用していた人がいます。神は、彼に驚くべき御業をなさいました。彼はアルコールと薬物中毒から解放され、もう25年、どちらにも手をつけていません。先日、25年間守られたお祝いをしました。彼は今や、繁盛する店の店主です。また、慈善団体で奉仕し、心優しく賢明なカウンセラーとして、人生の泥沼から這い出して更正しようとする人たちを支えています。夫思いの妻にも恵まれ、子どもたちはイエスを愛しています。
神は私たちを決して見捨てられません。たとえ間違った道を選んで悔やんでいたとしても、今をどう生きるかは、新しく選ぶことができます。後悔するだけで何も改めず、自分を傷つける生き方を続けることもできますが、「いなご、ばったの食い尽くした年々を償おう」(ヨエ2:25)と言われる聖書の神を信じて、キリストにすがることもできます。悔い改めて、神の癒しの力と解放の力を求めるならば、神はあわれんでくださいます。
過去の過ちが原因で今ある現実を帳消しにできない、というのは事実かもしれません。しかし、神はご自分を信頼する人たちに、ご自分の栄光を現す素晴らしい未来をくださいます。私たちは、それを確信することができます。
単純にしよう
アメリカ合衆国第4代大統領ジェームズ・マディソンは、この国の憲法の起草に尽力しました。彼は、「読めないほど膨大であったり、ごちゃごちゃしていて理解しづらい」法律を作ってはいけないと警告しました。私は役所に提出する記入用紙を読みながら、お役人たちはマディソン大統領の言葉にもう少しきちんと耳を傾けてほしいと思いました。
福音を人に伝えるとき、ことを必要以上に複雑化してしまうことがあります。うれしいことに聖書は、救いの良き知らせを明瞭で平易なことばで伝えています。イエスは、学識あるパリサイ人のニコデモに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と語られました(ヨハ3:16)。また後に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とも言われました(14:6)。使徒パウロは、どうしたら救われるのか、と尋ねたピリピの牢獄の看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と端的に語りました(使16:31)。
神の麗しいラブストーリーは単純です。神は、私たちを罪と死から救い出すために、ご自分のひとり子を遣わされました。子どもでさえ理解できる、素晴らしい話です。
イエスのチーム
人気のファストファッションの販売員はモデルのようなもので、店に飾ってあるのと同じような服を着ています。これはブランド戦略のひとつで、その背後にある考え方は、あの人たちのように見られたいと思って客は服を買う、というものです。
消費志向の社会にいると、私たちは物を売る人たちによって、見た目が良ければみんなに好いてもらえると信じ込まされています。そして、好感度を金で買おうと誘惑されるのです。それどころか、この世の人たちの目に自分の外見が魅力的に見えるなら、彼らをキリストの救いに導くことができるのではないかと思うことすらあります。
しかし聖書は、神にとって真に重要なことは何かを明らかにしています。それは、私たちの内面がキリストに似せられていくことです。ある意味で、イエスは私たちの「ブランド」です。というのは、私たちは神のかたちに少しずつ形づくられているからです(ロマ8:29)。私たちがキリストの品性を身に着けるなら、人はキリストに魅力を感じて引き寄せられてくるでしょう。それはつまり、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(コロ3:12)であり、何にもまして「愛」(14節)なのです。
私たちは、自分のイメージを守ったり高めたりするのではなく、神のイメージを映して守らなくてはなりません。そしてそれは、キリストを通して私たちの内に完成させられます。
小さな活字
ミッシー・サリバンはウォールストリートジャーナル紙に投稿して次のように指摘しました。製品に同封されている同意書、保証書、免責条項の多くは、ほとんどが読めません。わざと小さな活字にして、製品を購入しようとする客に読む意欲を失わせています。そのために、多くの人はほとんど読まずにサインします。大学でグラフィック・コミュニケーションを教えている教授は、新たに購入したスマートフォンに付いてきた32ページに及ぶユーザー同意書を指して、「あの会社は、これを読んでほしくないのだ」と言いました。
神はこれとは正反対です。神は常に分かりやすくて説得力のある方法で、ご自分の民にみこころを伝えようとされます。私たちを混乱させたり、だましたりしようとは決してなさいません。モーセは約束の地に入ろうとするイスラエルの民に語りかけました。「…私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものではない。…私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ」(申30:11、19、20)。
神は私たちにご自身のご計画と目的を明快に理解してほしいと願っておられます。そうして、神を愛し、御声に聞き従い、神にすがりついてほしいと願っておられます。なぜなら神は「あなたのいのち」であるからです。これは実に分かりやすい話です。
監視カメラ
近所の警察署が、信号無視のドライバーを写すために監視カメラを取り付けました。違反者のところには後日、赤信号を横断する車の写真と一緒に違反切符が郵送されてきます。この写真は、交通違反の動かぬ証拠です。
時として、神は監視カメラと同じだと感じることがあります。神は天におられて、私たちが悪いことをする現場を押さえようと見張っておられると思ってしまいます。確かに、主は私たちの罪を見ておられますが(ヘブ4:13)、同時に、良い行いにも関心をもってくださいます。教会に献金したり、困っている人に金銭的な支援をしたりしたときも、どの程度の犠牲を払ってそうしたかを見ていてくださいます(マコ12:41-44)。誰も知らない個人的な祈りも聞いてくださいますし(マタ6:6)、思うところあって断食するときも、隠れたところにおられる天の父が見られると確信して(18節)、辛さを見せずに通常の生活を続けることができます。
主がすべてを見ておられることが分かると、世間の目が気にならなくなります。正しいことをするなら、人に誉められようが誉められまいが関係ありません。罪を犯してしまったときも、神に告白して赦していただき、被害者に対してもすべきことをきちんとするなら、周りの人に何と言われるだろうかと思い悩む必要はありません。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴16:9)というみことばをいただき、平安に過ごしましょう。
私を手放さない愛よ
良い関係の中心には愛があります。聖書は、人を愛する人間になるようにとはっきり言っています。心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛し、敵すらも愛しなさいと教えます。しかし、愛されていないのに愛するのは難しいことです。親にかまってもらえない子ども、夫または妻は自分に無関心だと感じている人、わが子に疎遠にされている老人などは、愛のない人生の苦しみを知っています。
ですから、愛されたいと思う人は思い出しましょう。神が豊かに愛されていることを。そして、その喜びを受け止めましょう。あなたのために十字架の上から注がれた神の愛によって、どれほど人生が変わったか考えましょう。神を信じるなら、神の愛があなたの欠点や失敗をおおって、一点の汚れもない義で包んでくださることに思いを巡らせましょう(ロマ3:22-24)。何ものもあなたを主の愛から引き離すことができないことを喜びましょう(ロマ8:39)。永遠に神の愛と過ごす場所が準備されていることを信じましょう(ヨハ3:16)。
ヨハネは「互いに愛し合うべき」だと語っていますが、そのとき彼は、「(神の)愛する者たち」と私たちに向かって語りかけています(Ⅰヨハ4:11、3:2)。神にどれほど愛されているかがしっかりと分かったなら、神のみこころどおりの愛に富んだ人になることは、今よりずっと簡単です。たとえあなたに愛を示さない人に対してでもです。
水仙の花畑で
初春の花が咲いている庭で、5歳になる息子が、水仙が咲いている一角に座り込んでいました。彼は何ヶ月も前に散った植物の残骸を見つけて、「ママ。僕は死んだものを見るとイースターを思い出すよ。だってイエスさまも十字架で死んだんでしょ」と言いました。私は、「ママはね、そこの水仙のように元気に生きているものを見ると、イエスさまの復活を思い出すわ」と返答しました。
イエスが墓からよみがえったことを確信させる話のひとつが、ルカの福音書に収められています。イエスが処刑されて3日後、ふたりの人がエマオに向かっていました。イエスは、この人たちと一緒に旅をされ、食事もされました。それどころか、旧約聖書の預言を教えたりもされたのです(ルカ24:15-27)。ふたりの旅人は、イエスが死から復活されたことを悟ります。そしてエルサレムに戻り、「ほんとうに主はよみがえった」と弟子たちに告げました(34節)。
もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの信仰はむなしいものです。私たちは今もなお、自分の罪の中にいるのです(Ⅰコリ15:17)。しかし、聖書は、私たちが義と認められるために、イエスはよみがえられたと語っています(ロマ4:25)。
今日、私たちは神と正しい関係の中にいます。それは、イエスが生きておられるからです。