Category  |  信仰

クリスマスの霊

1年で聖書を!
◆ レビ記14-16
聖書のみことば ルカ1:31-41
 
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。
―ルカ1:35

クリスマス・チャリティーや歳末助け合い運動の募金は12月の恒例行事ですが、その期間が終了すると、困っている人を助けようという機運はしぼんでしまいます。「クリスマスの慈善の精神を一年中持っていられたら良いのにね」と話し合う人もいますが、なぜ慈善や親切がカレンダーに縛られているのでしょう。

岩の中に隠れる

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記38-40
聖書のみことば 詩篇18:30-36
 
主はわが巌、わがとりで、―詩篇18:2

オーガスタス・トプラディーという若い伝道師の物語があります。トプラディーは、イギリスの田舎を散歩していて突然の嵐に見舞われましたが、大きな岩のくぼみを見つけて逃げ込みました。そしてどしゃぶりの雨の中、嵐が過ぎ去るのを待ちながら、自分が逃げ込んだところと人生の嵐における神の助けについて思い巡らしました。

あれもこれもの国

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記35-37
聖書のみことば 黙示録22:1-5
 
私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。―Ⅱペテロ3:13

車の後部座席で、子どもたちが夕食について言い争っているテレビコマーシャルがあります。ひとりはピザが食べたいと言い、もうひとりはチキンだと言いました。助手席のお母さんは「いいえ、ハンバーガーにするわよ」と言っています。

豊かな人生

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記25-27
聖書のみことば申命記8:7-18
 
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。―ヨハネ1:16

中国の正月である春節には、特定の文字を用いて祝賀の意を表す習慣があります。その文字のひとつは「満」です。この文字は「いっぱい」であることを意味しますから、新しい年の繁栄を願うために使われるのです。

音楽に感謝

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記21-24
聖書のみことばⅡ歴代誌5:7-14
 
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように……主を賛美し……主の栄光が神の宮に満ちた
―Ⅱ歴代誌5:13-14

音楽は聖書の中で大きな位置を占めています。神のために働くようにと、創世記からヨハネの黙示録までの音楽家たちは、神に召されています。神は音楽を用いて、賛美することを教えたり、人々を戦いに送ったり、傷ついた心を慰めたりされました。また、信仰の情熱に火をつけたり、勝利を祝ったりもされました。

マジカルアイ

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記11-13
聖書のみことば ヘブル11:1-10
 
[神は]神を求める者には報いてくださる方であることとを―ヘブル11:6

マジカルアイとは、普通の平面的な画像を三次元の立体画像にして見ることです。ちょっと見方を変えると、平面なのに立体的に見える画像があります。親戚が集まったとき、甥がその本を持ってきました。

平静を取り戻す

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記8-10
聖書のみことば エペソ6:10-18
 
邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。―エペソ6:13

ここ数年、妻のマーリーンは平衡感覚がなくなる内耳障害に悩まされています。突然不調が起きて、ひどいめまいがします。こうなると立つことも座ることもできなくなり、寝込んでしまいます。体が元気でも、どうすることもできないのです。妻は活動的な人なので、この発作には閉口しています。

適切な助言を得る

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記5-7
聖書のみことば 出エジプト記18:13-24
 
モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。―出エジプト記18:24

私たちは日々忙しい生活を送っているので、出エジプト記18章に記されているモーセの状況に難なく共感できます。モーセは大集団の中で、ただひとりのさばきつかさでした。神のみこころを求める人々に囲まれて、「朝から夕方まで」多忙を極めていました(13節)。

聖霊を悲しませる

1年で聖書を!
◆ 創世記43-46
聖書のみことば エペソ4:25-32
 
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。―ヨハネ14:16

知らない間に財布からお金が減っていたら、ぎょっとするでしょう。そして、それが我が子の仕業だと分かったら、怒りより悲しみがこみ上げてくるでしょう。「悲しむ」という言葉は、愛する人に失望させられるときの痛みを表現するものでもあります。