焦点を当てるもの
テキサス州中部の町で、2011年9月初旬、大規模な山火事が発生して600戸の家屋が焼失しました。その数週間後、オースティン・アメリカン・ステイツマン紙は「何もかも失った被害者が、失われなかったものを語る」という見出しの記事を掲載しました。その内容は、近隣住民からの多大な支援について、また、助けてくれる友人や地域の人たちの存在に気づけたことが、失ったもの以上に大きいと被害者たちが語っているというものでした。
一刻一刻が大切
友人のボブ・ボードマンは59歳のとき、「元気に過ごせる年齢を70歳までとして、人の一生を24時間ある一日に当てはめるとするなら、今の私は夜の8時半にいることになる。人生はまたたく間だ」と書きました。
逆さま
イエスには、「不思議だなあ」と思わされることがいくつもあります。イエスの働きに驚かされたり、当惑させられたりします。それは、イエスの人生に対する教えが、世の常識とは真逆の場合があるからです。
人生の旅が長くなると、大体のことは分かっていると思うようになります。そして、人生の舵取りや物事に対する応答がパターン化してしまいがちです。しかし、イエスは私たちの平凡な日常生活に介入され、新しくてより良い道に導こうと声をかけてくださいます。でも、ご注意ください。「イエスならばこうなさる」という方法は、私たちに大きなチャレンジを与えます。
いのちを得るために死ぬ(マコ8:35)、得るには与えよ(マタ19:21)、悲しむ人は幸いだ(5:4)、治めるには仕えよ(ルカ22:26)、苦しみには目的がある(5:10-11)という逆説的なことばについて考えてください。キリストはおかしい、ずれている、と思われるのは、こうした発言があるからです。しかし、ずれているのは、実は私たちです。キリストが逆さまなのではなく、私たちがそうなのです。私たちは、何がベストかは親より自分のほうが分かっている、と思っている子どもに似ています。
神が私たちに「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」と言われました(イザ55:8)。ですから、私たちの直感は頼りになりません。神の方法に倣えるよう助けてください、と祈りましょう。