誰の願い?
中華系の人たちは、旧正月を祝うとき、「万事があなたの願い通りになりますように」と挨拶を交わします。そうなったら素晴らしいのかもしれませんが、私の願いではなく、神のみこころがなされるなら、そのほうが最善だといえるでしょう。
いのちを選べ
私の人生にとって神のみこころは何だろう。若いころ、ずっと悩んできました。見つけられなかったらどうしようと不安でした。神のみこころは、干草の山に落ちた針のようでした。似たものがいくつもあるし、偽物が圧倒的に多いようにも思われました。
辛い場所
私たちのバイブルスタディーのメンバーのひとりは仕事を失い、ファーストフード店で働くことになりました。彼は高学歴の技術者ですが、科学の急激な変化によって、自分の分野が世の中で用を成さなくなったのです。彼はその状況を、「辛く謙虚さを強いるもの」と語りましたが、さらに、こうも言いました。「ただ良いことは、店にいる若者たちが、私の信仰にとても興味をもっているようなのです。」メンバーのひとりがそれに応えて言いました。「君は謙虚で偉いなあ。強い信仰が無ければできないことだ。」
神の計画
神を愛する友人のリンダは、医療伝道を志していました。医者として主に仕え、医療体制が整っていない地域に出て行って、病気の人たちに福音を届けたいと願っていました。しかし、神には別のご計画がありました。リンダは確かに、病人に福音を伝える伝道師になりましたが、その形は、彼女が考えていたものではなかったのです。
神のみこころ
私たちは神のみこころを求めます。状況が困難なときは特にそうです。「どうなるのだろう。ここに留まるべきか、それとも、別の所に行くべきだろうか」と思案します。みこころを知る道はただひとつ、それは今、神があなたに求めておられること、すなわち現在の義務をきちんと果たし、次のステップが明らかになるのを待つことです。既に示されていることに従う中で私たちは強められ、次のステップに向かうことができます。飛び級はありません。私たちは、一歩ずつ前進します。神とともに歩むことを、こうやって学んでいくのです。
私たちの祈りと神のみこころ
祈ってくださいと書かれた手紙が届きました。「祈ってください。私は多発性硬化症患者です。筋肉が弱り、物を飲み込むのも困難です。痛みは増すばかりですし、視力も落ちています。」何もしてあげられないようで、やりきれない思いでした。とりなしの祈りを求める文面には、弱っていくばかりの体を憂う女性のあきらめさえ感じられました。