見つけるために失う
英国人の夫と結婚して英国に引っ越ししたとき、私は、5年ぐらい異国で冒険するのだろうと考えていました。20年近くたった今でも、ここにいるのは想定外ですし、家族や友人、仕事など、慣れ親しんだものに別れを告げて、自分を失ったような体験をするとは、夢にも思いませんでした。しかし、古い自分を失ったことで、もっと素晴らしい人生を手に入れました。
子どものためのレッスン
学校の給食時間に困ったことが起きていると小学生の娘が言うので、即座に、どうやって助けてやろうかと思いました。しかし、ふと別の考えが浮かびました。もしかして神は、ご自分が生きて働かれるお方であることを私の娘に教えて、娘の信仰を成長させようとされているのかもしれない…。それで、実際に助けるのではなく、娘といっしょに祈ることにしました。すると、問題は、私の助けなしに解決しました。
別れを告げる
別れは辛いものです。家族や友だち、住み慣れた土地、職場や生業、何であれ、別離は辛いものです。
本分
ピューリッツァー賞受賞の映画評論家ロジャー・イーバートを偲んで、オクラホマン紙のキング記者が書きました。「名声、栄誉、名士の仲間入り、映画界の大物たちに独占インタビューをするという夢のような環境の中で、イーバート氏は自分の本分、すなわち映画評論を忘れませんでした。彼は、人を動かす情熱と知的探究心で映画を論評しました。」
上から降りる
階段の上にいて降りるのを怖がっている一匹の子犬を、ビデオカメラが映していました。下には「がんばれ」と応援している人たちがいましたが、子犬のデイジーは、どうしてよいのか分かりません。みんなのところに降りて行きたくてたまらないのに、怖がって上でウロウロするばかりです。するとサイモンという大きな犬が助けに行きました。サイモンは階段を上ると、「ほら、簡単だよ」と言わんばかりに降りてみせました。しかし、デイジーはもじもじしています。サイモンはもう一度、今度はゆっくりとやってみせました。そして、デイジーが踏み出すのを待ちます。しかし、デイジーはまだ怖がっていました。サイモンはもう一度、デイジーのそばまで階段を上って行き、降り方を示しました。ついにデイジーは勇気を奮い起こして、前足を出し、後ろ足を前足に引き付けました。その間、サイモンはデイジーのそばから離れませんでした。ついにデイジーは降りることができました。みんな拍手喝采です。
コスプレ、それとも制服?
ユニケ・マッガラハンは、クリスチャンとして生きることについて示唆に富む話をしました。「コスプレとは、ある衣装を着て、その恰好をした人物のふりをすることです。一方、制服とは、あなたが何であるかを示す服装です。」
葛藤から生まれた歌
ジャック・ホワイトは、名ギタリストたちを追ったドキュメンタリー映画の中で、曲を作るときの必須条件について、「自分の内面や自分の周りに葛藤がないのなら、それを作らなくてはならない」と語っています。
心の奥底にある思いを言葉にしてくれる歌は、私たちにとって大切な歌となります。詩篇はよく「聖書の歌」といわれますが、これらはみな葛藤の中から生まれました。それは、私たちの失望や恐れなどをうまくとらえる一方で、私たちの心を神の真実の愛に向けさせてくれます。
ダビデは詩篇31篇で「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも」(9節)と書きました。彼は自分にしかけられた罠(4節)、自らの罪(10節)、友の離反(11-12節)について語り、命をねらわれているとも述べています(13節)。
しかし、ダビデの希望は自分の力ではなく神の力にありました。彼は、「主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください」と祈ります(14-15節)。
詩篇はあなたの心情を神に注ぎ出すよう勧めています。神は、ご自分を信頼する人たちに施す慈しみを十分に備えておられるのですから(19節)。