本当の偉大さ
自分は大渓谷に転がる小石のようだと感じることはないでしょうか。大したことは何もできない、と思ってはいませんか。しかし、神はそのような人を大いに用いられます。
無用のプライド
年をとった悪魔が訓練中の若い悪魔に、クリスチャンの注意を神から教会の人たちにそらせるように強く促しています。これは、C.S.ルイス著「悪魔の手紙」の一場面です。
田舎の医者
シンクレア・ルイスの小説「本町通り」は、田舎の開業医と結婚した洗練された都会の女性、キャロルの物語です。彼女は、新しく暮らすことになった小さな町で、自分はみんなより優れているとお高く止まっていました。しかし、重症の患者に対応する夫の姿を見て、自分の間違いを示されます。それは移民の小作農が大怪我をして運びこまれ、腕を切断しなければならないというときでした。キャロルは、患者と取り乱している患者の妻を優しく励ます夫の姿を見て、心から彼を尊敬しました。暖かく真摯に人に仕える医師の姿は、プライドに凝り固まったキャロルの心に衝撃を与えました。
悲劇的欠点
文学の世界には、悲劇の主人公に性格的な欠陥があり、それが彼(彼女)を破滅に追い込んでいくというパターンがあります。これを「悲劇的欠点」と呼びますが、聖書のウジヤ王の場合は、まさにそれでした。ウジヤは16歳にしてユダの王となり、長い間、主を追い求め、主に従いました。神はそのようなウジヤに繁栄をお与えになりました(Ⅱ歴26:4-5)。ところが、変化が現れました。それについて聖書は次のように語っています。「彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである。ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った」(口語訳 15-16節)。
ウジヤは神の命令に背いて、自らが祭壇で香を焚こうとし、主の神殿に入りました(16節)。おそらく、自分だけは特別で、神が全人類に与えられた戒めからも除外してもらえると思うほどに、心が高ぶっていたのでしょう。祭司はウジヤを諭そうとしましたが、ウジヤは居直って激しく怒りました。そのとき、神がウジヤにツァラアトを与えられたのです(18-20節)。
文学でも、現実の世の中でも、良い評判を誇った人が面目を失い、自分の名を汚し、苦しむのを見ることがあります。聖書は「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔ての家に住んだ。彼は主の宮から絶たれたからである」(21節)と語ります。
称賛の甘い蜜が、おごりという毒に変化しないように注意すべきです。そのためにできる唯一のことは、謙虚な心で神に従うことです。
土の器
高価なアクセサリーは普通、黒など濃い色のベルベットを貼った箱に収められています。そのようにデザインされているのは、宝石の美しさをきわだたせ、人を惹きつけるためでしょう。もし、外箱のデザインも華やかだったなら、宝石の美しさと張り合ってしまいます。
このことは、私たちを通してなされるイエスのみわざについて思い出させてくれます。使徒パウロは、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」と語りました(Ⅱコリ4:7)。私たちは、イエスのみわざが宝であり、自分は器にすぎないことを簡単に忘れてしまいます。そして、自分という土の器を飾って、自分がキリストのためにしたことを自分の手柄にしてしまいます。自分が誰かを赦したり、他人に親切にしたり、たくさんの献金をしたりすると、人に認めてほしいと思います。けれども、良いことをしたので認めてほしいとか、褒めてほしいと求めるのは問題です。それは、輝く宝(私たちを通して神が働いておられるということ)と張り合うことだからです。
私たちがキリストのためにしたことはすべて、私たちに関することではなく、キリストの栄光に関することです。自分の姿を少しでも見えなくすることで、神の栄光は輝きを増します。ですからパウロは、神が栄光を受けるように、宝は土の器の中に入れると言ったのです。土の器が尊いなどと聞いたことはありません。大切なことは、その中に何が入っているかではありませんか。
神の優しさを
厳しい不景気のさなか、私は、失業中のクリスチャンが互いをサポートする自助グループを立ち上げました。履歴書の相互チェック、求人情報ネットワーク網、祈りによるサポートなどがその内容です。そんな中、ひとつの問題が浮上しました。自分が就職すると、もう関係ないとばかりに、自助グループに参加しなくなる人がほとんどだということです。そのため、なかなか就職できない人たちは、むしろ孤独感を募らせたのです。
さらに悪いことは、失業を経験したことのない人の言葉でした。「もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される」(ヨブ8:6)と、友だちが苦しんでいるヨブに告げたときと同じように責めました。ヨブは、「安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ」(ヨブ12:5)と自分の気持ちを表しましたが、現代の社会で求職中の人たちもおそらく共感するでしょう。
人生が大した問題もなく進んでいる人はともすると、自分は苦境にある人たちよりも優れているとか、神に愛されていると思いがちです。この失われた世界の影響は、いつ、誰のところにやって来るか分からない、ということを忘れてしまうのです。
私たちは、状況が良くても悪くても、みんな神に愛されています。また、状況が良くても悪くても、私たちはみんな、神が必要です。自分に与えられた成功や富、または社会的地位は、困っている人たちを助け励ますツールなのです。
成功という滑りやすい坂
◆ Ⅰサムエル記14-16
作家でもある化学者のO.A.バチスタ博士は、1万9千を超える風刺詩を書いています。その中に「金銭と称賛、知名度に無関心になるや否や、成功の頂点に到達できる」という名言があります。ところが残念なことに、自分の行いが認められ報いられると、しばしば正反対のことが起こります。