馬のアイマスク
◆ エゼキエル書19-21
私たちの家からさほど遠くないところに、多くの馬を飼育する牧場があります。ある季節になると、目にマスクをかけられた馬を見かけます。私は長い間、目隠しをされるなんてずいぶん可哀想だと思ってきましたが、最近、そうではないことが分かりました。実は、目にかけられたアイマスクは網状の布で作られていて、目隠しではないのです。馬は見ることができます。一方で、馬の眼病の原因になるハエは、目にたかることはできません。アイマスクは、馬の視界を遮るためではなく、馬が病気で盲目になるのを防ぐためのものでした。
クリスチャンでない人は、聖書に関して同じような誤解をしがちです。この人たちは、世の楽しみを見せないように、神が聖書というアイマスクを人の目にかけるのだと考えます。そして、人生をエンジョイできないクリスチャンは可哀想だと思います。私が馬のアイマスクについて本当のことを知らなかったように、彼らは聖書について本当のことを知りません。聖書は、良いものを見ることを妨げるものではありません。うそ偽りに侵されて霊の目が見えなくならないように、私たちを守ってくれているのです。聖書は人生をエンジョイさせないのではなく、最高の人生を可能にしてくれるものです。
聖書は、真実を知るのを妨げるのではなく、うそを信じさせられることを防いでくれます。
神のみことばのフィルターを通してこの世を見れば、神と世についての真理が学べる。
耳を澄ませる
◆ エゼキエル書8-11
すべての夫婦に当てはまるかどうか分りませんが、どういう訳か、私は考えごとをすると周りの音が聞こえなくなります。妻のマーティが大切な話をしているときでもそうなので、彼女はイライラします。遠くを見ているような私の目に気づくや、妻はしばしば言います。「あなた、私の話をちゃんと聞いているの?」
「聞く」ということは、どんな人間関係にも大切なことですが、神と人との関係にとってはなおさらそうです。神に属している人には、聖書のみことばや聖霊の働きを通して、神と対話する特権が与えられています。神の御声によって、義、愛、恵みなど、イエスの品性や神のみこころと整合性のあるものに導かれていくなら、私たちは真の牧者に注意を向けていると言えます。イエスがご自分を「良き牧者」と言われて明らかになさっているように(ヨハ10章)、イエスの御声に忠実に耳を傾けている人が、イエスの献身的な従者であり(4節)、キリストに似た者に変えられていく人です。
配偶者や友人の話にきちんと耳を傾けることが、「あなたは大切な人です」という無言のメッセージであるように、イエスの御声に注意深く耳を傾けることは、「私の人生にとって神はとても大切なお方だ」ということを証するのです。ですから、生活の雑音ではなく、イエスの御声に耳を澄ませましょう。そして、神がおっしゃることを実行する恵みが与えられるように、祈りましょう。
イエスの言われたことに耳を傾けることが、イエスに従う第一歩だ。
聴いて応答する
◆ エレミヤ書50-52
自分のことばかり話す人に会ったことがありますか。礼儀で相手のことを訪ねると、その人は自分のことばかり話し、あなたについて尋ねようとはしません。ふたりの会話は、その人のことだけ、あなたの話題は皆無です。
さて、私たちのデボーションはどうでしょう。私たちはまず、神のみことばをいくらか読みますが、祈る段になると、さっさと自分のニーズに焦点を移して、あの問題を解決してください、生活の必要を満たしてください、病気を癒してください、助けてください、と祈ります。しかし、たった今読んだ神のみことばに対する応答はありません。神がたった今、語りかけてくださったことについては、ほとんど無視しているのです。
詩篇119篇の作者の態度は、このようではありません。この人は、「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」と、神のみことばを理解できるように助けてくださいと祈りました(18節)。彼にとって、神のみことばがどれほど大切であるかを告白し、「私の喜び」(24節)だと、祈りの中で述べています。
祈りの中でみことばに応答する習慣を身につけましょう。そうすれば、私たちのデボーションの質が大きく変わります。聖書を読むことと祈ることは、聴いて応答するというきちんとしたコミュニケーションであるべきです。
神のみことばに耳を傾け、それについて祈ろう。
みことばとともに目覚める
◆ Ⅱ列王記21-22
目が覚めると、部屋はまだ暗く、起きるには早すぎました。ため息をついて枕を直し、もう一度寝ようとしましたが、今日しなければならないことが次から次へと浮かんできて、どうにもなりません。食料品の買い出し、困っている友人に食事を届ける、Eメールの返事を書く、予約を入れている病院に行く…。不安で押しつぶされそうになったことがある人なら、眠るべきときに眠れず、天井を見つめている人の気持ちがわかるでしょう。