全部は出来ない
ベッドに入る前、4歳のエリアーナは母親と一緒に自分のものを片づけていましたが、「ベッドの上の洋服を片付けなさい」と言われてかんしゃくを起こしました。小さな手を腰に当てて、「全部できないわよ」と怒鳴りました。
神に召されたことをしているとき、この子のように感じたことがありますか。教会の奉仕をし、良い証を立て、子育てもして、いっぱいいっぱいです。イライラし、ため息をついて、「主よ、全部はできません」と祈ります。
けれども、神の教えを見るなら、ギリギリまで頑張ることが期待されているのではないと分かります。例えば人間関係について、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と言われました(ローマ12:18)。「自分に関する限り」という条件が付いています。神は、私たちの限界をご存じです。また、「何をするにも、人に対してでなく、主に対してするように、心からしなさい」と言われ(コロ3:23)、人にすごいと思われるような完璧さはなくても、神にささげるつもりで仕事をしなさいと語られます。さらにもうひとつ加えれば、「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」と言われ(ガラ6:4)、他人と競うのではなく、ただ負うべき自分の荷を負いなさいと教えられます。
神の知恵によって、神は各人に備えをくださいました。それによって、私たちはそれぞれ、神がして欲しいと思っておられることをするのです。これは決して全部ではありません。
大いなることを期待せよ
ウイリアム・ケアリは平凡な男性でしたが、その信仰は非凡でした。18世紀の労働者階級に生まれ、靴作りを生業(なりわい)にしていましたが、そのかたわら、神学書や未知の民族を発見した探検家の日記などを読んでいました。神は、これらの書物を用いられました。ケアリは世界に福音を伝えなければならないと思うようになったのです。彼は宣教師としてインドに赴き、福音伝道の働きを始めました。同時に、インドのいくつかの方言を習得して、聖書をそれらの言語に翻訳しました。ケアリの宣教にかける熱意は「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」という彼自身の言葉に表れています。ケアリは、自分の言葉どおりに生き、何千人という人々が彼の生き方に影響されて海外に福音を伝える宣教師になりました。
聖書は、神を信じることで驚異的な結果をもたらした多くの人々について語っています。へブル11章33節~34節は「…信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ」た人々の存在を伝えています。
歴史が下るにつれて、このような英雄の数は累積され増えていきます。その一員になる可能性は、私たちにもあります。神は何でもおできになり、誠実なお方ですから、私たちは大いなることを企て、大いなることを期待できるのです。
金を選別する
アラスカに旅行したとき、フェアバンクスの近くのエル・ドラド金山に行きました。金山を見学し、ゴールドラッシュ時代の採鉱方法の実演を見た後、金の選別作業を体験しました。一人ひとりに平なべと、土と石の入った袋が渡されます。袋の中身を平なべに入れ、水槽から水を加えると、その泥水をぐるぐるかき混ぜながら捨てていきます。そうすると、金は重いので、それだけがなべの底に残るのです。私たちは熟練の業を見てからまねをしようとしましたが、ほとんど上達しませんでした。というのも、金が混じっているかもしれないと思うと、価値のない土を思い切って捨てられないからです。
この体験は、何かを持っていると真に価値ある物を見つけられないことがあるという真理を表しています。このことが当てはまるひとりの金持ちと、イエスは出会われました。この金持ちにとって、この世の富は、精神的な宝よりも重要でした(ルカ18:18-30)。その様子を見て、イエスは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と言われました(24節)。
金銭は、それ自体は悪いものではありません。しかし、蓄財が人生の目標になってしうことがあります。そうなったなら、人は本当の豊かさを手にすることはできません。一生懸命にお金を貯めるのは愚かなことです。なぜなら、試練を耐えて、神を賛美し、神に栄光や栄誉を帰すように私たちを支えてくれるのは、お金ではないからです。それは純粋な信仰です(Ⅰペテ1:7)。
助けはすぐそこまで!
◆ 詩篇106-108
チリの炭鉱で33人の作業員が地下深くの坑道に閉じ込められました。彼らは、自分たちは苦しみながらゆっくりと死んでいく運命をたどると思って絶望したのではないでしょうか。しかし、レスキュー隊が自分たちの正確な居場所を把握したこと、また、救助作業がすでに開始されたとのメッセージが地上からもたらされたとき、どれほどうれしかったことでしょう。
希望の探求
◆ エゼキエル書24-26
◆ Ⅰペテロ2
ミネソタ大学の研究者たちの調査によると、アメリカの10代の若者の約15パーセントは、自分はきっと35歳になる前に死んでいるだろうと思っているそうです。この種の悲観的な物の見方をする人たちは、無鉄砲で奔放な傾向にあるようです。この研究を小児科学会誌に発表したボロスキー博士は、「こうした若者は危険なことをしがちです。なぜなら、絶望感にさいなまれ、自分には失うものなど何もないと思っているからです」と語っています。
お父さん!
◆ 箴言30-31
◆ Ⅱコリント11:1-15
ジェームスは1歳半になりますが、自信たっぷりに家族を先導し、大きな教会の廊下を歩いていきました。お父さんは、息子が巨人(大人)たちの間をぬって、よちよち歩いて行くのを見守りつつ、後についていきました。ところが突然、ジェームスの視界からお父さんが消えてしまったのです。さあ、大変!ジェームスはパニックになり、立ち止まってキョロキョロすると、「パパ、パパ!」と泣き出しました。お父さんは、急いで彼のそばに走り寄り、幼いジェームスの伸ばした小さな手を、しっかりと握りしめました。するとすぐ、ジェームスは安心したのです。
かかって来い!
◆ 詩篇119:1-88
◆ Ⅰコリント7:20-40
あるテレビ番組が、世界でもっとも危険な空港を取り上げていました。そのひとつは、既に閉鎖されている香港の啓徳空港です。私も行ったことがありますが、確かに乗客にとってはスリル満点、そしてパイロットにとっては技量を試される空港と言えます。一方の着陸路を取るなら、飛行機は摩天楼の上空を通過し、滑走路に降りるや、海に突っ込む前に機体を停止させなければなりません。また別方向から着陸するときは、飛行機が山中に突っ込んで行くように感じられるのです。