重すぎる
早朝の薄暗い光の中、車のエンジンをかけたところ、シートベルトサインが点灯しているのに気づきました。私はシートベルトがドアにはさまっていないか、たるんでいないかなどを確認しましたが、まだ点灯しています。「もしかして…」という気がして、助手席に置いたバッグに手を伸ばし、それを持ち上げると、サインが消えました。
そのバックには硬貨の包み3本やハードカバーの本、弁当などが入っていたため、子どもの体重程度の重さに達して、センサーが作動してしまったのです。
バッグの中身を空にするのは簡単ですが、重さを減らすことが難しいものもあります。とりわけ、人生の重荷は気持ちを重たくします。
心にのしかかる重荷が、ダビデを疲れ果てさせたような罪であれ(詩32:1-6)、ペテロが体験したような恐れであれ(マタ26:20-35)、トマスの抱いたような疑いであったとしても(ヨハ20:24-29)、それらを持って来なさいと、イエスは招いておられます。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と語っておられます(マタ11:28)。
私たちは、自分だけで重荷を負うようには創られていません。私たちの重荷を担ってくださるお方に、それを委ねましょう(詩68:19、Ⅰペテ5:7)。そうすれば、神はそれに代えて、赦し、いやし、そして、回復を与えてくださいます。神にとって重すぎる重荷はありません。
雨に想う
新しく植えたペチュニアが、可哀想なことに土砂降りの雨に打たれてしまいました。できることなら、軒下に避難させてやりたいぐらいです。雨がやんだとき、ペチュニアの小さな花々は、滝のように降り注いだ雨水の重さでうなだれ、弱々しく悲しげです。しかし数時間経つと、それらはぴんと上を向き、翌日には、まっすぐに力強く立っていました。
なんという変容でしょう。雨水はペチュニアの頭を叩いたあと、枝葉から滑り落ち、土壌の中に浸み込みます。そして、ペチュニアの茎を通ってそれを潤し、まっすぐに立ちあがる力を与えます。
私は日光が好きなので、雨によって庭の植物が駄目になってしまうのが嫌いです。私には、雨を否定的にとらえる傾向がありますが、それは間違いです。干ばつを体験した人なら、雨が祝福であることを知っています。雨は地を潤し、良い人の上にも、悪い人の上にも、地の恵みを与えてくれます(マタ5:45)。
雨のみならず、人生の嵐に激しく襲われて、その大きな力にくじけそうになったときも同じです。「雨」は、私たちの敵ではありません。私たちの慈しみ深い神が嵐をお許しになったのですから、私たちをより強くするために、それが必要なのでしょう。神は、雨で私たちの外側を打たれますが、私たちの内面を強くされます。そういうわけで、私たちは、まっすぐに強く立ち上がることができます。
強制された余暇
ある年のクリスマスの直前、友人のキムが白血病だと診断され、直ちに化学療法が始まりました。少し前、彼女は友人たちに、愛する家族と居心地の良い住まい、そして孫息子も生まれてすごく幸せだと言っていたのです。彼女は入院するとき、主のご臨在が常にあるようにと祈りました。
彼女は、無菌室で7カ月間治療を受け、徐々に回復しましたが、この期間は「強制的な余暇」だったといいます。つまり、「ゆっくり過ごすこと、静かに神や自分と向き合うこと、神の善良さ、愛、そして完全なご計画(自分が完治するか否かにかかわらず)の中で安らぐことを学習させられた」のです。
神の民であるイスラエルに与えられた神の約束のひとつは、キム個人に向けられたものとなりました。「あなたの神、主は、…救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパ3:17)
キムは今、寛解(かんかい)期にありますが、入院体験は自分の人生を良い方向に変える旅だったといいます。また忙しい日常生活が始まりましたが、今でもしばしば立ち止まり、「強制された余暇」の時期に学んだことを思い出すといいます。
良い時でも悪い時でも、神のみこころに寄り添い、みことばを聞き、自らを神の御手に委ねることは、非常に重要なことです。
悲しみを鞄に詰めて
激動の1960年代、アメリカで流行した音楽は、反戦と愛国心の入り混じった奇妙なものでした。戦争や貪欲、社会の不正義を激しく非難する音楽がある反面、国家への忠誠や伝統的な価値観を重視する歌もありました。しかし、リチャード・ファリーナとポーリン・バエズ・マーデンが作った「悲しみをわが手に」は、あらゆる意味で心の平和を求めることを歌っていた曲だといえます。サビの部分は次のように語りかけます。「ねえ。何とかして君の悲しみを鞄に詰めることができたなら、それをみんな僕にくれないかい。君はそれを失うんだ。僕は使い道を知っているよ。それをみんな僕にくれないかい。」
心の平安を本当にくれる人がいると良いのに、と誰もが思うでしょう。そんなあなたに良い知らせがあります。イザヤ書の、イスラエルに約束された救い主を預言しているみことばを読んでください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:4-5)。平安をくださるお方がおられます。クリスチャンはイエス・キリストの死と復活によって、このみことばが実現したことを知っています。
私たちの罪も痛みも、イエスが負ってくださったので、私たちは赦され、神との間に平和が与えられました。あなたも今日、あなたの痛みをイエスに渡しませんか。
簡単なレシピは無い
孫の誕生日パーティーのために、妻はチョコチップ入りの大きなクッキーにデコレーションしました。彼女はレシピ本を調べて材料を調達し、一つひとつのステップに従ってクッキーを焼きましたが、シンプルなレシピだったので、すべてがうまくいきました。
人生もこうなら良いと思いませんか。シンプルなレシピに従うだけで、幸せな人生を謳歌できるなんて。
ところが人生は、そう簡単にはいきません。私たちは堕落した世界に生きているので、痛みや苦しみ、不正義や喪失を免れさせてくれるレシピはないのです。
苦しみのただ中にあるとき、私たちは救い主に個人的にかかわっていただいて助けていただかなければなりません。主は、この世に生き、私たちと同じ苦悩を体験されました。
へブル人への手紙4章15節は、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」と語ります。このみことばは、私たちを勇気づけてくれます。キリストは、私たちにいのちを与えるために死なれました。そして、私たちが辛い闇の中を通るときにも、最後までしっかりと支え抜いてくださるお方です。「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と聖書が述べているとおりです(イザ53:4)。
人生の痛みを避ける簡単なレシピがないことを、イエスはご存知です。だからこそ、イエスは私たちのところに来てくださいました。悩みも苦しみも一切、このお方に委ねてみませんか。
立ち往生
テネシー州のメンフィスからミズーリ州のセントルイスまではバスで6時間です。ただし、これは運転手が乗客をサービスエリアに置き去りにしない場合の話です。ある日、バスに乗っていた45人の乗客は、最初の運転手に置き去りにされると、代わりの運転手が到着するまで夜通しで8時間、待つはめになりました。彼らは予定が狂ったことに苛立ち、このままで果たして大丈夫だろうかと不安を感じたでしょう。今か今かと、救援の到着を待ちわびていたに違いありません。
身に覚えのない罪で獄中にいたヨセフの気持ちは、この人たちの比ではなかったでしょう(創39章)。助けてもらえるはずの人に忘れられてしまって、途方に暮れたに違いありません。しかし、「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し…監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた」のです(創39:21-22)。それは、ヨセフが何をしても、主がそれを成功させてくださったからでした(23節)。しかし、神のご臨在と御恵みにもかかわらず、ヨセフは長年獄中にいました。
あなたは今、病院や刑務所、故郷から遠く離れた土地にいて途方に暮れているでしょうか。あるいは、自分の殻に閉じこもって、どうにもならなくなっているかもしれません。けれども、あなたがどこにいようと、また、どれだけ長くそこにいたとしても、神のあわれみはあなたに届きます。なぜなら、神は、全能であられ(出6:3)、天にも地にも満ちておられ(エレ23:23-24)るからです。誰も助けてくれない、と思われる時も、あなたを守り、前進させ、必要を満たしてくださいます。
レッドテープ
英語に「レッドテープ」という言い回しがあります。「お役所仕事」という意味で、官僚的で、いらいらするほど物事がはかどらない様子を表します。その語源は、かつて役所では公文書を赤いリボンで結んでいたことにあります。1800年代の初期、スコットランド人の歴史家トーマス・カーライルが、行政ののろのろした対応に抗議するエッセイの中でこの言葉を使い、一躍有名になりました。また、アメリカ南北戦争の後、帰還兵がなかなか保障を受けられないという問題が起こり、「レッドテープ」という言葉が再浮上しました。これは、何かをしようとしたとき、厄介な障害が立ちはだかって、焦燥や失望を引き起こすことを意味しています。
レッドテープ(お役所仕事)は世の語り草ですが、この世に一カ所だけ、それがない所があります。それは神の王座です。ローマ人への手紙5章2節で使徒パウロは、「キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」と述べています。悲しみに打ちひしがれたり、心が騒いだりして、私たちが神のみもとに駆け寄ろうとするとき、その邪魔をするレッドテープはありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちのために道を備えて、天の御座に近づくことができるようにしてくださったからです(ヘブ 4:16)。
忘れないでください。心が傷ついて苦しいとき、神に助けを求めるために数々の障害を乗り越えなければならない、などということはありません。キリストによって、私たちは今すぐ、そして完全に、神にアクセスできるのです。
困難
昨年は「やれやれ」という気持ちで年の瀬を迎えました。あまりにもたくさんの悲しみ、病、そして嘆きが、その一年にあったからです。「来年こそ良い年に…」と、新年に期待していました。しかし、年が明けると、次から次へと悲しい知らせが舞い込みました。何人かの友人が両親を亡くし、叔父は就寝中に帰らぬ人になりました。癌になった友人も幾人かおり、同僚の弟と友人の息子は、どちらも突然の悲劇で命を落としました。良い年どころか、新しい年は悲しみの大波が打ち寄せて来たようでした。
ヨハネ16章33節には「あなたがたは、世にあっては、患難があります」と記されています。神の子どもたちにも、健康で裕福で気楽な人生が約束されているわけではありません。しかし、困難の中にあっても、私たちはひとりぼっちではありません。イザヤ43章2節は、私たちが深い水の中を通り過ぎるときも、神は共にいてくださると語ります。自分に与えられた試練に神のどんな目的があるのか、常に理解できる訳ではありませんが、私たちは神の心を信頼することができます。なぜなら、神を知っているからです。私たちの神は、愛に富んだお方で、「死も、いのちも、…今あるものも、後に来るものも、…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:38-39)。困難にあっても、神のご臨在は神の約束です。
涙の道
アメリカ史上に残る悲惨な出来事として、19世紀初期に行われた先住民の強制大移住が挙げられます。当時、急速に増加する白人たちと数々の条約を結び、アメリカ独立革命をともに戦った先住民たちが、先祖伝来の地から追放されました。1838年の冬、チェロキー族は「涙の道」として知られる1,600キロメートルもの道を西に向かって歩かされました。