悪い知らせに打ち勝つ
多くの人が「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」と言っている、というダビデのことば(詩4:6)は、今日の私たちにありがちな悲観的な見方に通じているようです。新聞の一面やインターネット、テレビのニュースには、犯罪や事故、政治経済の混乱、著名人のスキャンダルなどが大きく取り上げられています。職場でも家でも、話題になるのは困ったことばかりです。これでは誰もが悲観的になってしまいます。もっとましなニュースが聞きたかったら、どこに行けばよいのでしょう。
神は、苦しみから解放してくださり(1節)、祈りを聞いてくださいます(3節)。ダビデは、神を仰ぎました。そして、状況が一時的に好転することを願うよりも、絶えることのない神の励ましに心を留めて、「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」と祈りました(6節)。その結果は、「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています」(7節)という賛美です。
ダビデは王位に着く前も後も、生涯、敵に追い回されました。しかし、一日の終わりには「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(8節)と言うことができました。
詩篇4篇が語る神の守りという真理を、1日の始めや終わりに思いめぐらすことは、ふさわしいことです。
恐れを覚えるとき
長男が生まれたときは大変な難産で、30時間以上もかかりました。その日の医師は妻の担当医ではなく、代理の医師だったので、妊娠中の経過をよく知りませんでした。その結果、緊急帝王切開を行う決断をするまでに時間がかかりすぎました。息子は大変な状況を経て深刻な状態で生まれてきたので、すぐに新生児集中治療室に入れられました。ところが、この小さな命が難産によって引き起こされた深刻な症状を乗り越えていくために、医師ができることは何もなかったのです。しかし、神のあわれみにより、息子は回復していきました。
あれほどの恐怖を味わったことは、後にも先にもありません。私は、集中治療室のベビーベッドのかたわらで凍りついていました。しかし、祈り心で神に語りかけるなら、神がそばにいてくださるという確信がありました。
人生で恐れを覚えるとき(そのほかのどんな時にでも)、神のご臨在を実感し、神が心配していてくださると分かるならば、痛んでいる心に大きな慰めが与えられます。詩篇の作者であるダビデは、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」と賛美しました(詩23:4)。
恐れに圧倒されるときでも、神はそばにおられます。神のなぐさめは、試練の谷を抜けるまでずっと一緒に歩んでくださいます。
人生で最良の時
人生は、まるで移り変わる季節のようです。私たちは、自分が望むか否かに関係なく、次の季節へと押し出されます。そして、次の季節に何が待ち受けているのだろうかと不安になったり、恐れることさえあります。
特に老年になると、そうではないでしょうか。自分は一人っきりになるのだろうか。元気でいられるだろうか。お金に困ることはないだろうか。認知症にならないだろうか等々。私たちは、人生の節目節目で選択しなくてはなりません。悪いことばかり考えて時間を無駄にするのか、それとも、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」(エペ5:16)というパウロの励ましに応答して生きるかです。
どんな季節であっても、神の誠実は変わりません。神は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われます(ヘブ13:5)。ですから、私たちは、「主は私の助け手です。私は恐れません」と大胆に言うことができます(ヘブ13:6)。
あなたには神の臨在と神の備えがあるので、人生のどんな場面でも、イエスに忠実に従い、イエスのみことばと祈りの中に身を置き、かつてないほど自由に愛したり赦したりして、喜びと寛容をもって人に仕えることができます。こうして、あなたは機会を十分に生かすのです。
神は、今という季節をもって私たちを祝福しておられます。さあ、これを最大限に生かしましょう。
最後まで忠実に
英国のサロモン・キールダー・マラソン大会での出来事です。ある選手が32キロメートル地点まで走ったところで、コースをはずれてバスに乗りました。そしてゴール近くの森まで行くと、そこからレースに戻り、なんと3位に入賞しました。その選手は後に大会関係者に尋問され、疲れたからやったと答えたそうです。
キリストを信じる信仰というレースを走る私たちには、疲れきった運動選手の気持ちが痛いほど分かります。ヘブル人への手紙は、「私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と、私たちを叱咤激励します(ヘブ12:1)。忍耐して走るためには、立ちふさがる罪を避け、後ろに引き戻そうとする重荷を捨てなければなりません。迫害の中を前進しなくてはならない場合さえあります(Ⅱテモ3:12)。
聖書は、疲れきって気力が失せ果ててしまわないように(ヘブ12:3)、キリストに焦点を合わせて集中しなさいと、私たちに促しています。私たちが、自分の問題に夢中になるのでなく、もっと主イエスに注意を払うならば、私たちは伴走してくださっているイエスに気づきます。このお方は、私たちがつまずく時には支え(Ⅱコリ12:9)、手本を示しながら励ましてくださいます(Ⅰペテ2:21-24)。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブ12:2)ようにするなら、私たちは力の源にしっかりとつながっていることができます。そして、主に忠実に人生のレースを走り切ることができます。
苦悩を通して強められる
教会の礼拝を締めくくる祝祷に、ペテロの手紙第一5章10節、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」が用いられることがあります。その際、「あなたがたをしばらくの苦しみのあとで」という部分が省かれることがありますが、なぜでしょう。苦しみ云々と言うのが、心地よいものではないからかもしれません。
しかし、苦しむことが起こったとしても、驚くには値しません。使徒パウロは苦しみを十分に知っていた人ですが、彼は「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と語ります(Ⅱテモテ3:12)。
私たちが神に従順に暗い(Ⅰペテ5:6)、サタンに立ち向かっている(9節)なら、中傷されたり、誤解されたり、相手に都合の良いように利用されたりするかもしれません。しかし、苦しみには目的がある、とペテロは言います。その目的は「(あなたがたを)完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者と」することです(10節)。
クリスチャンを成長させるために、神は試練の道を与えられます。私たちは、それによって強くなり、未来の嵐にも耐えることができます。神に栄光を帰する勇敢な人生を歩みたいと願う人たちを神が支えてくださって、その志を全うさせてくださいますように。
荒れ地が美しい庭に
春は、物事が常に目に見えているとおりとは限らないことを悟らせてくれます。すっかり枯れ果てて絶望的にさえ見えたところに、生命が芽吹きます。寒々とした裸の森が、緑豊かな景色に生まれ変わります。
冬の間、着物を求めているかのように裸の腕をのばしていた木の枝たちが、突然、緑のドレスをまといます。しぼんで地面に落ちてしまった草花も、「死んでないぞ」と言わんばかりに、土の中からむっくりと起き出してきます。
聖書にも絶望的な状況が描かれています。そのひとつは、ヨブという裕福な人の話です。ヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」人でした(ヨブ2:3)。その彼を災いが襲い、すべてを奪っていきました。ヨブは苦難の中で「私の日々は…望みなく過ぎ去る」と言いました(7:6)。ヨブも彼の友人も、この災いは神がヨブに罰を当てたのだと考えましたが、それは全くの間違いでした。神は、ヨブの正しさはサタンに攻撃されても揺るがないと信じておられました。後日、神はヨブの生活も希望も回復させられました。
毎年、必ず春がやってくることは、絶望的な状況にいる人にとって慰めです。神がともにいてくだされば、絶望というものはありません。どれほど悪い状況に見えたとしても、神はそれを用いて、美しく栄光に満ちたものを作ってくださいます。
苦難の岬
キャプテン・クックの名で知られる、英国の冒険家ジェームズ・クックの船は1770年6月10日、オーストラリア北東海岸の沖で座礁しました。彼は船を何とか深みに引き戻しましたが、再び岩礁に乗り上げ、今度は沈没しそうになりました。クックはこの経験について「北の地点を『苦難の岬』と名づける。すべての試練が、ここから始まったからだ」と航海日誌に記しています。
みなさんも、ひとつの問題がきっかけとなって、次から次へと試練に見舞われるという経験をしたことがあるかもしれません。その中には失業、病気、家族の死、不本意な離婚などが含まれていたかもしれません。
しかし、「苦難の岬」のような危機に直面しても、神が主権者であることに変わりなく、神がすべて掌握しておられることに違いはありません。神は試練を用いて私たちの中に抵抗力を養おうとされます。使徒ヤコブは、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」と書いています(ヤコ1:2-3)。「忍耐」と訳されている単語は、「留まる力」あるいは「耐える力」という意味です。
人生を一変させるような試練のただ中でも、神が働いておられることを思い出してください。神は、あなたの品性を培うために「苦難の岬」の経験を用いられます。また、そこを無事に通り過ぎるために十分な恵みを賜ることも、約束しておられます(Ⅱコリ12:9)。
デビッド、よくやった
デビッド・シュムは、脳性麻痺に侵されながらも楽天的で、忍耐強く、信仰深い人でした。私たちは彼の葬儀で、彼の人となりを心からたたえました。彼の74年の生涯は、日常生活の簡単な作業さえも労苦する大変なものでした。にもかかわらず、笑顔を絶やさず、病院で2万3千時間以上もボランティア活動をしたり、家庭環境に問題のあるティーンエイジャーを支える働きに携わったりしました。
デビッドは生前、自分の葬儀の聖書朗読は、イザヤ書35章3節~10節にしてほしいと言っていました。「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。…そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ』」(3-4、6節)。このみことばは、捕囚の身となったイスラエル人に向けて語られた神の約束です。私たちクリスチャンにとっては、キリストが再臨されるという希望を再確認させてくれるみことばでもあります。
デビッドは生涯最後の数週間、見舞いに来る人たちに、ベッド脇にあるイエスの大きな絵を指して、「主イエスはもうすぐ、ぼくを迎えに来てくれるよ」と話していました。これは、神の子どもたちすべてに賜った希望です。だから私たちは、イエスに感謝し、イエスを賛美するのです。
見えない危険
子どもの頃のこと、私たちの家族は危うく大惨事を免れたことがあります。当時、暖炉をはじめ家の主な設備は、ほとんど天然ガスを使っていましたが、ガス管からわずかにガスが漏れていて、私たちの生命をおびやかしたのです。小さな家にガスが充満し、私たち家族はガス中毒になって気を失ってしまいました。近所の人がたまたま立ち寄って発見してくれなかったら、私たち家族は全員、この見えない危険な敵に殺されていたことでしょう。
キリストの弟子である私たちは、自分が見えない危険に囲まれていることを知っています。誘惑という毒のある現実と、人間であるがゆえの弱さは、私たち自身や私たちの人間関係を危うくします。しかしながら、我が家のガス中毒事件とは違って、これらの見えない敵は、外からのものではありません。それは、私たちのうちに宿っています。ヤコブは、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」と書いています(ヤコ1:14)。
私たちは罪を犯してしまう性質を持って生まれてきました。また、目には盲点があって自分の弱点が見えません。これらは合わさって、私たちを間違った選択にいざない、破滅させてしまうかもしれないのです。しかし唯一、神に従うなら、神は私たちの心の状態を聖書のみことばを通して示されます。そして、みことばを行う人となって、主なる神に喜んでいただける人生を送ることができます(23-25節)。