造り変えられる
クリス・シンプソンは憎しみを糧に生きていました。第一子を亡くしたことで迷い、怒りに満たされていったからです。その怒りを他人種の人たちに向け、憎しみを表現する刺青を体中に彫っていました。
終わり?
世のすべてのものには終わりがある、というのは、時として辛いことかもしれません。おもしろい本を読んでいると、終わってほしくないと思います。もうすこし長ければよかったのにと、映画を見終わって思うこともあります。
あふれる思いやり
以前「デイリーブレッド」に、妻マーリンがめまいで苦しんでいることを書きました。すると、冊子が発行されるや否や、まったく予想していなかったことが起こりました。読者の方々から励ましや気遣い、治療法などの書かれたメッセージが、次々と寄せられました。世界各国のさまざまな人たちが、妻の健康を気遣ってくださったのです。私の妻に対する愛と思いやりが大波のように押し寄せ、私たちはただただ圧倒されるばかりでした。キリストのからだがマーリンの苦しみに応えてくれるのを、この目で見ることができたのですから。全員にお返事はできませんでしたが、今も心から感謝しています。
イエスのチーム
人気のファストファッションの販売員はモデルのようなもので、店に飾ってあるのと同じような服を着ています。これはブランド戦略のひとつで、その背後にある考え方は、あの人たちのように見られたいと思って客は服を買う、というものです。
消費志向の社会にいると、私たちは物を売る人たちによって、見た目が良ければみんなに好いてもらえると信じ込まされています。そして、好感度を金で買おうと誘惑されるのです。それどころか、この世の人たちの目に自分の外見が魅力的に見えるなら、彼らをキリストの救いに導くことができるのではないかと思うことすらあります。
しかし聖書は、神にとって真に重要なことは何かを明らかにしています。それは、私たちの内面がキリストに似せられていくことです。ある意味で、イエスは私たちの「ブランド」です。というのは、私たちは神のかたちに少しずつ形づくられているからです(ロマ8:29)。私たちがキリストの品性を身に着けるなら、人はキリストに魅力を感じて引き寄せられてくるでしょう。それはつまり、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(コロ3:12)であり、何にもまして「愛」(14節)なのです。
私たちは、自分のイメージを守ったり高めたりするのではなく、神のイメージを映して守らなくてはなりません。そしてそれは、キリストを通して私たちの内に完成させられます。
あいしてる
夫婦で公営プールにいたとき、周りの人たちが空を見ているのに気づきました。小型飛行機が飛んでいて、煙で何かを書いていました。じっと見てみると、パイロットは「あ・い・し・て・る」と書いていきます。人々は、ひょっとしたらプロポーズではないかと推測し始めました。ロマンチックな男性が恋人と一緒に、どこか近くのバルコニーにいて、「結婚してください」と、今にも告白するのではないだろうかと。さらに見ていると、「あ・い・し・て・る、ジ」となり、若い女の子たちの「きっとジェンよ、もしかしたらジェシカかな」という声が聞こえました。パイロットはさらに書き続けました。すると、その名は「ジーザス」でした。彼は、イエスを愛していると多くの人たちに宣言したのです。
私の友だちは、「愛しています、主よ」といって、祈りを締めくくります。彼は「『愛しています』と言わずにはいられないんだ。ぼくのために、こんなにまでしてくれたのだから」と言います。今日の聖書のみことばはローマ人への手紙6章1節~11節ですが、使徒パウロはここでイエスの御業について語っています。イエスは十字架にかけられ、葬られ、復活しました。この御業のために、イエスを信じる私たちは、今新しいいのちを持っています(4節)。もはや罪や死の恐怖に支配されず(6節、9節)、キリストと永遠に生きるために復活します(8節)。このような御業は、私たちが心を込めて愛するのに、十分に値します。
「愛しています、ジーザス」と言うのは、当然です。