境界線で
ミシガン州グランドラピッツ市のフレデリック・マイヤー植物園には、蝶を孵化させる温室があります。この場所は、蝶の成育にとって最適の条件が整っています。気温や湿度が管理され、カロリーと栄養のバランスのとれたエサが準備されています。この温室の中にいれば十分です。どこかに行く必要はありません。ところが、何羽かの蝶は、ガラス張りの温室の外に広がる明るい青空にひきつけられ、豊富な食糧から遠く離れた天井のあたりを飛んでいます。
こんな蝶々に言ってあげたくなります。「君に必要な物は、みんな中にありますよ。外は寒くて厳しいの。あこがれの外に飛び出したら、数分のうちに死んでしまうわ。」
これは神からのメッセージかもしれないと思って、私は自問します。私は有害なものにあこがれていないでしょうか。不必要なものや、持つべきでない物を手に入れようと、エネルギーを費やしていないでしょうか。神の豊かな備えに目を留めず、手の届かないものを良い物と想像していないでしょうか。不信と信仰の境界線の辺りでうろうろしていないでしょうか。
神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます(ピリ4:19)。無いものを手に入れようともがく代わりに、心を開きましょう。そして、神がすでにくださったすべてのものを感謝して受け取りましょう。
感謝をささげる
よちよち歩きの女の子が猫を追って道路に飛び出し、配達のトラックにひかれました。動かない身体を抱きかかえた両親の姿を、4歳の姉は凍りついて見つめていました。この事件は、彼女の家族を冷たい虚しさの中に閉じ込めました。悲しみに打ちのめされない唯一の方法は、無感覚になることでした。すべての感情は凍りつき、逃げ場はありませんでした。
この4歳の姉は作家のアン・ボスカンプです。妹の死による悲しみは、彼女の人生感や神観に影響を及ぼしました。彼女は、恩寵という概念のない世界で育ち、「喜び」でさえ実感を伴わない概念にすぎませんでした。
ボスカンプは新米ママだった頃、聖書が「喜び」と呼ぶ捉えどころのないものを探し始めました。すると「喜び」や「恵み」という言葉は、「カイロ」というギリシャ語に由来しており、この言葉は、「感謝をささげる」を意味するギリシャ語の中心部分だと分かりました。「こんなに簡単なことなの?」と、彼女は不思議に思いました。そして、事の真偽を試してみようと、彼女は自分に与えられている千の事柄について感謝をささげることにしました。少しずつ始めると、瞬く間に「何て感謝なんだろう」という気持ちがとめどなくあふれて来ました。
イエスは、ラザロを死からよみがえらせた後ではなく、その前に感謝をささげられました(ヨハ11:41)。妹とともに失われたアンの喜びの感情も、感謝をささげることで、よみがえってきたのです。喜びは感謝をささげると、与えられます。
本当の所有者
◆ ゼカリヤ書1-4
◆ 黙示録18
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。―コロサイ1:16
駐車場が手狭になった教会の話を知っていますか。幸運にも、すぐ隣は日曜が定休日の店でした。そこで、店の駐車場を使わせていただきたいと頼んでみました。すると店主は「いいですよ。一年のうち51週は使ってください。けれども、52週目の日曜日は、鎖を張らせていただきます」というのです。教会の人は感謝しつつも、気になったので尋ねてみました。「52週目には何かあるのですか?」すると店の主人はにっこり笑っていいました。「いいえ、何も。ただ、ここはお宅の駐車場でないことを忘れていただきたくないだけです。」
神の言い分、私の言い分
◆ ハガイ書1-2
◆ 黙示録17
あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、―申命記30:20
孫娘のエリアナが遊びに来ていた日中の出来事を、帰宅した私に妻が話してくれました。エリアナはしばらくおもちゃで遊んでいましたが、別の部屋に行こうとしました。それで、「エリアナ、まずおもちゃを片付けてちょうだい」と、おばあちゃんに注意されました。ところがエリアナは「そんな時間はないの」と、すかさず応えたのです。エリアナはわずか2歳です。スケジュールに追われているわけではありません。