お話の時間
子どものころ、私は母に絵本を読んでもらうのが大好きでした。母の膝に乗ってページの絵を細部までしっかりチェックしながら、彼女のひと言、ひと言に聞き入りました。次のページに何が出て来るか、それはもうわくわくしたものです。
ところで、私たちの人生もまた、絵本の読み聞かせのようなものだと考えてみたことはありますか。良い時も、悪い時も、どちらでもない時も、周りの人々は「私たち」という絵本を見たり聞いたりしています。私たちの物語は、その口から出る言葉だけでなく、態度や行動を通して伝えられます。順風や逆風、その時々の状況にどう応答するかを、私たちの子どもや孫たち、配偶者や近所の人、同僚などが観察しています。
使徒パウロは、イエスに従うクリスチャンの人生は手紙だと述べています。それは、「すべての人に知られ、また読まれ…キリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ」た手紙です(Ⅱコリ3:2-3)。
周りの人たちは、この手紙を読み、私たちの人生を知るのですが、それは果たして何を語るのでしょう。赦しでしょうか、あわれみでしょうか。寛容、忍耐、もしくは愛でしょうか。
もしあなたが、神の恵みに満たされた人生の喜びを聖霊によって体験しているなら、素晴らしい神の語り部になる喜びも、どうぞ味わってください。
アドベントのテーマ
◆ エゼキエル書40-41
◆ Ⅱペテロ3
聖書の書巻はすべてつながっており、関係性を持っています。私は以前からそのことを信じていましたが、それでも、先月読んだペテロの手紙第一が、アドベントの4つのテーマすべてに触れていることに気づいたときは、今さらながら驚きました。アドベントは、キリストの再臨を意識しつつ、キリストの降誕を祝う準備をする期間です。神がキリストと共にくださった希望、平和、喜び、愛を強調する時です。
羊が水の中を歩む
◆ エレミヤ書32-33
◆ ヘブル1
作家C.S.ルイスは、宗教的な概念はスープのようだと言いました。とろみのついたポタージュもあれば、さらさらしたコンソメスープもあります。聖書の中には、確かに濃厚な概念があります。知的に理解することが難しい、複雑で神秘性と機微に富んだ概念です。例えば、「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」(ロマ9:18)というみことばを理解するのは簡単ではありません。しかし、聖書の中には、さらっと分かる考えもあります。「神は愛です」というヨハネの手紙第一4章16節のみことばは、これ以上ないというほど単純明快です。
忙しすぎる
◆ イザヤ書41-42
◆ Ⅰテサロニケ1
飛行機の搭乗を待っていたとき、私が牧師だと小耳に挟んだ人が、話しかけてきました。彼はキリストを信じる前の人生について語り、それは「罪と自己陶酔」の日々だったと言いました。しかし、彼はイエスと出会ったのです。そして、自分の生活がどれほど変わり、どれほどの奉仕をしてきたかも語ってくれました。それは興味深い話でした。しかし、彼の話は、神のために非常に多忙だったということで、神と非常に親しく交わってきた、というものではありませんでした。それで、「先生、正直なところ、なぜ、こんなにも心が満たされていないのだろうと思うのです」という質問には、少しも驚きませんでした。
巻物を捜せ!
◆ 詩篇135-136
◆ Ⅰコリント12
ある日曜日、私は教会の子どもたちに言いました。「教会堂に聖書個所を書いた巻物を何本か隠しておいたから、それを捜してごらん。その巻物を見つけて、そこに書かれている聖書のみことばを大きな声で読んだら、先生が賞品をあげるよ。」みなさんにも、あの子どもたちの様子を見て欲しかったです。彼らは会堂中を駆け回り、椅子を動かしたり、植木鉢を持ち上げたり、(許可をもらって)大人のバックの中を捜したりしました。彼らはワイワイ楽しみながら、けれども必死になって捜しました。そして、巻物を見つけ出しました。みことばを見つけて喜ぶ子どもたちや、応援しながら一緒になって喜ぶ大人の様子は、私たちに神のみことばを求めることの大切さを再認識させてくれました。