Tag  |  行動

鏡よ鏡!

自分の姿をどれくらい鏡に映して見ますか。あるリサーチによると、一日平均8回から10回程度だそうです。しかし、別の調査では、店のショーウインドーやスマートフォンに映る姿をちらりと見ることも含めると、一日に60回から70回にもなるといいます。

行動せずに いられない

キング牧師が1963年に率いた公民権運動の中でも歴史的な「ワシントン大行進」に、当時23歳のジョン・ルイスが参加しました。半世紀後、今やアメリカ合衆国下院議員となったルイスに、キング牧師の演説「私には夢がある」が与えた影響について、ジャーナリストのビル・モイヤーズが尋ねました。ルイスは答えました。「あの演説を聞いたあと、何も無かったかのように元の生活に戻ることはできませんでした。何かをせずにはいられなかった。とにかく行動を起こさずには…。良い知らせを伝えずにはいられませんでした。」

クリスマスの 陰の立役者

クリスマスの物語で、ヨセフがどれほど重要だったのか、長い間気づかずにいました。しかし、結婚して夫となり、父親となってからは、ヨセフの品性に大いに感動するようになりました。彼は、どのようにしてマリヤが妊娠したのか知る前から、不貞を働いたかのように見える彼女を、さらし者にしたり、断罪したりしないと決心していました(マタ1:19)。

恩知らず

ある暑い夏の午後、ふたりの若者の乗った車がファーストフード店から渋滞した道に入ろうとしていました。ドライバーは誰もがイライラしていましたが、私の前の車は道をゆずって彼らを入れてあげました。私はそれを見て「親切な人だな」と思いました。

トゲの例え話

ジェイ・エリオットの動揺した顔が、今でも目に浮かびます。もう50年ぐらい前のことですが、私は蜂の群れに襲われて、彼の家に飛び込んでいきました。そして、家を突き抜けて裏に出ると、蜂はいなくなっていました。つまり、蜂をジェイの家に残してきました。おやっと思うやいなや、今度はジェイが蜂に追われて出てきました。私は10カ所以上刺されましたが、大事には至りませんでした。とばっちりを受けたジェイは、1~2カ所刺されただけでしたが、アレルギー反応が起こりました。目や喉がひどく腫れ上がり、痛みも伴いました。私の行動によって、友人は多大な痛みを被ったのです。

無人スタンド

我が家の近所には、自宅前の道路で野菜や果物、花などを売っている家がたくさんあります。私たちも時々、このような無人スタンドに行きます。自分の好きなものを選ぶと、そこに置いてある料金箱(または缶)にお金を入れます。そして家に帰ると、もぎたての新鮮な果物や野菜を堪能するのです。

さて、この無人スタンドは、みんなの誠実を前提にしていますが、すべての人がその心を尊重するとは限りません。

ジャッキーは花の鉢植えのスタンドを出しています。ある日、窓の外を見ると、つば広の大きな帽子をかぶった身なりの良い婦人がいくつもの鉢を車に乗せているのが見えました。ジャッキーは、売り上げは50ドルほどになるかしらと頭の中で計算してにっこりしましたが、後で料金箱を調べると、なんと中は空っぽでした。この女性には、誠実に行動するという前提は通用しなかったようです。

この人にとって、花を黙って取って行くというのは、大したことではなかったのでしょう。しかし、小さい事に対してどのような態度を取るかは、大きい事に対して誠実に行動するか否かを計る指針になります(ルカ16:10)。生活のすべての面で正直であることは、私たちの救い主、イエス・キリストに栄光を帰することです。

コロサイ人への手紙3章17節は「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし…」と語ります。クリスチャンにとって誠実とは、このみことばのとおりに行動することです。

行ないによって

ある牧師が夜、教会に向かって歩いていると、銃を持った強盗に襲われました。命が惜しければ金を出せと言われて、財布を差し出そうとポケットに手を入れたとき、強盗は、つめ襟の牧師服に気づいて、「あんた牧師だったのか。だったら金はいらない。行ってくれ」と言いました。牧師は、強盗の思いがけない態度に驚いて、チョコバーを1本差し出しました。すると、「いいや、結構だ。俺は受難節のあいだは、甘い物を絶つことにしている」と言ったのです。

この男は受難節には何かを犠牲にするということで甘い物を絶っていましたが、強盗で暮らしを立てているのですから、それが彼の本性です。神を畏れているとは言えません。

箴言の著者によれば、その人の行いが、その人の人格を計る最も正確な指標です。「自分は神を敬っている」と言うなら、その人の行動がその言葉と一致していなければなりません(箴20:11)。これは、イエスの時代の宗教指導者にも当てはまることでした。イエスは、パリサイ人を非難されました。自分たちの罪を認めようとせず、見せかけの敬虔に終始していることを暴露されたのです(マタ23:13-36)。

人の外見や言葉は、当てになるとは限りません。人格を判断するには、その人の行動を見るのが一番です。この事実は、私たち全てに当てはまります。
主イエスに従う者は、主に対する愛を口先だけではなくて行動によって表します。神が愛してくださったので、私たちは自分を神にささげます。その献身が、今日、私たちの行動を通して明らかになりますように。

あわれみの手を差し伸べる

1年で聖書を!
◆ 出エジプト記14-17
聖書のみことば マタイ9:9-13
 
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。―マタイ9:12

私たちの町の地方新聞のひと隅に1970年代半ば、離婚調停の申し立てと離婚成立の公示が載るようになりました。私たちの教会のフラナガン牧師は、毎週、そこに掲載される多くの名前を見て、それらは単なる文字ではなく、一人ひとりの人間だと強く感じるようになりました。

泥沼状態

1年で聖書を!
◆ エレミヤ書3-5
◆ Ⅰテモテ4
聖書のみことば エレミヤ書20:7-13
 
主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。
―エレミヤ書20:9

エレミヤは、「嘆きの預言者」とも呼ばれています。もともと繊細で沈みがちな性質だったのかもしれませんが、神に逆らい続けるイスラエルの民にさばきが下ることを知って、嘆き悲しみました。エレミヤの嘆きは、驚くほど激しいものでした。彼は述べています。「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も…泣こうものを」(エレ9:1)。