静かにゆっくり話す
◆ 士師記7-8
◆ ルカ5:1-16
柔らかな答えは憤りを静める。―箴言15:1
アメリカの有名な俳優であり、映画の象徴的存在であるジョン・ウェインは、「静かにゆっくり話せ。しゃべりすぎるな」と語ったものでした。私にとって彼のアドバイスは、簡単に従えるものではありません。私は早口ですし、いつも物静かに言葉数少なく話すわけではないからです。しかし、自分の口をコントロールするという考え方は、怒りに対処するときには有益です。聖書は「語るにはおそく」(ヤコ1:19)なければならないと教えていますし、「柔らかな答えは憤りを静める」(箴15:1)とも述べています。
無料で褒めます
◆ ヨシュア記7-9
◆ ルカ1:21-38
親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。―箴言16:24
世の中の話題が、経済危機などの憂鬱なニュースばかりだったとき、パーデュー大学のふたりの学生が、大学のみんなを明るくしようと決めました。キャメロン・ブラウンとブレット・ウェストコットは、水曜日の午後の120分間、キャンパスの人通りの多い歩道に「無料で褒めます」と書いた大きな看板を立て、通り過ぎる人たちに「その赤いコート、良く似合うよ」、「そのスノーブーツかっこいい!」、「とても素敵な笑顔だ」などと言って褒めるのです。彼らの暖かい言葉を聞きたくて、水曜日はわざと「褒め屋」のいる場所を通るという学生もいます。
伝えなくてはだめ?
◆ レビ記11-12
◆ マタイ26:1-25
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
―Ⅱコリント5:17
ジムはケアリに福音を語りました。彼女が罪のために聖なる神から離れていること、そして、彼女を救うためにイエスが死んで、よみがえられたことを伝えました。しかし、彼女はあることが心にひっかかり、信じることができません。「イエスを心に受け入れたら、そのことを他の人に伝えなくてはだめですか。そんなことはしたくないのです。」そんなことは自分の性格に合わないから、他の人にイエスを伝えなければならないというのは嫌だと言いました。
言葉を選ぶ
◆ イザヤ書59-61
◆ Ⅱテサロニケ3
私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。―Ⅰコリント2:1
子どものころ、嬉しがって発音に挑戦していた難しい単語があります。それは「antidisestablishmentarianism」です。何と長ったらしい言葉でしょう。最近、その意味を辞書で調べてみました。それによると「教会を国教会として国が認定する制度を廃止することに反対する論理もしくは政治的信条」とあります。この定義もこの単語と同じぐらいややこしいものです。私も私の友だちも、その意味を知りませんでした。ただ、難しい言葉を使うと、自分が物知りであるかのように人に見せることができたのです。
神のために語る
◆ イザヤ書47-49
◆ Ⅰテサロニケ4
恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、 ―Ⅱコリント4:2
文章を書くとき、よく分かるようにと最善の努力をしたにもかかわらず、正しく理解してもらえないことがあります。自分の力不足にがっかりしますが、努力を続けるしかありません。しかし時には、文脈を無視して解釈したり、意図したことと全く異なる意味を読み込んだりする読者がいます。これには、もどかしい思いです。いったん出版されたなら、それが読み手にどう用いられるか、作家が管理することはできないからです。
知らせなさい
◆ イザヤ書45-46
◆ Ⅰテサロニケ3
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ―ローマ5:8
私は、神の創造の御業を感謝するべきだと、かかりつけの医者に言いました。彼は懐疑論者で、注射針を手にしていたので、黙っているべきかなとも思ったのですが…「もし、今でも進化が続いているなら、その針をどこに刺したらよいか定められないでしょう」とつづけました。彼は「あなたは本当に神を信じているのですか」と尋ねました。私は「もちろんです。人は、実に複雑に創られていますよね」と答えました。
健全な言葉
◆ 箴言3-5
◆ Ⅱコリント1
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。―エペソ4:29
アメリカの最高裁判所は2008年11月、下品な言葉を言論の自由として認める限度について討議しました。連邦通信委員会は、タレントが番組中に汚い言葉を使っていたのに、それを放置して放送したということで、あるテレビ局を喚問しました。テレビ局側は、下品な言葉であっても、生放送でうっかり出てしまったもので、また性的に露骨でない場合は罰せられるべきではないと主張しました。それに対し、このような汚い言葉から子どもたちを守るのは大人の務めだ、と反論した人たちもいました。