嘆かせてはいけない
牧師は毎週、会衆の前に立ち、神のみことばを注意深く説明し、キリストを模範とした生き方にチャレンジしましょう、と語りかけます。ところが、簡単に批判の的になります。私たちは時として、牧師のあら探しをします。自分の個人的な見解に捕われて、牧師の良いところを見逃してしまいます。
世界は御父のもの
アマンダはカリフォルニア州サン・ディエゴ市にあるキリスト教系の大学の2回生でした。彼女は、クリスチャンが地球環境保全に果たすべき役割について、再考させられました。今までは、自分が救われていることと地球環境に配慮することに関連性があると意識していなかったのですが、クリスチャンに果たすべき役割があるとチャレンジを受けたのです。特に、世界中の困窮している人たちに福音を届けるということと、地球環境の関連を考えさせられるうちに、彼女は大きく成長し、変わっていきました。
クリスチャンには、神が創られた美しい世界をみこころにそって管理し、そこに住む人たちが幸せに暮らせるように配慮する責任があります。この責任を果たすことによって、私たちは自らが神を敬っていることを示します。この責任は、次のふたつの聖書の原則に基づいています。
初めの原則は、「地は神のもの」だということです(詩24:1-2)。詩篇の作者は、万物の創造主である神を賛美します。天と地、そしてそこにあるすべてのものは神のものです。神が創造し、神が君臨し(93:1-2)、神がそれらをいつくしまれます(マタ6:26-30)。第2の原則は、世界が健全に営まれるように守り導く責任を、神が私たちに授けたということです(創1:26-28)。私たちは、自然も人も尊んで守らなければなりません(レビ25:2-5、11節、箴12:10、ロマ15:2)。
地球環境は、私たちの御父のものです。それを尊重し、その中に住む人々に心を配ることによって、自分がどれほど神を愛しているか、神に示していきましょう。
務めをいつも果たす
◆ ミカ書1-3
◆ 黙示録11
ショッピングモールのフードコートで食事を終えて、子どもたちがゴミを捨てに行ったとき、長男が誰かにぶつかりかけました。その人の様子が変だったので、下の息子は「彼は、何かを盗んだのかもしれないよ」と冗談半分に言いました。私は、良いしつけの機会かもしれないと思って、「そういうことを聖書では『さばく』というんだよ」と言いました。すると息子は笑って「パパは、休みの日も牧師なの?」と質問しました。私は大笑いしましたが、その後で、私は常に息子たちの「羊飼い」で、休暇を取ることはないのだと話しました。
平和
◆ エゼキエル書47-48
◆ Ⅰヨハネ3
平和はアダムとエバの時代に失われました。禁断の木の実を食べて自分たちが裸であることに気づくやいなや、ふたりは互いに相手を責め始め(創3:12-13)、神の平和な星に対立を持ち込みました。このふたりの末裔(私たちも含まれる)は悲しいことに、祖先の悪い模範に倣っています。私たちは自分が間違ったときでも他人のせいにする一方で、誰かが失敗したときには、責任をたらい回しにすることに腹を立てるのです。自分の不幸を他人のせいにするなら、家族や教会、地域社会や国家を分裂させます。私たちは平和を作ることができません。誰に責任を負わせようかと、犯人捜しに夢中になるからです。