ただ引退するのではなく
◆ 詩篇31-32
◆ 使徒23:16-35
その人はただ、……自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできるが、
―民数記8:26
世界最高峰のエベレスト山に初登頂したのはエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイのふたりで、それは1953年のことでした。ヒラリーは33歳でこのような偉業をなし、富と名声、そして、偉大な人生を歩んだ充足感を得ました。ヒラリーはその後の55年間、何をしたのでしょう。成功に安んじて、楽隠居をしたでしょうか。いいえ、まったく違います。
恵みとあわれみと平安
◆ 詩篇26-28
◆ 使徒22
主をほめたたえよ。……(主は)あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、―詩篇103:1,4
恵みと平安ということばが、新約聖書のパウロのどの書簡にも、諸教会への挨拶のことばとして記されています。そしてテモテへの手紙には、「父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように」(Ⅱテモ1:2)と、あわれみということばが加わっています。これらのことばをひとつひとつ、吟味してみましょう。
別れの挨拶
◆ 詩篇20-22
◆ 使徒21:1-17
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。―Ⅱテモテ4:6
カーネギー・メロン大学のランディ・パウシュ教授は、47歳で末期ガンを宣告されたのち、大学で最後の講演をしました。彼はコンピューター・サイエンスの教授で、聴講者は学生や同僚、そして友人たち150人ぐらいだろうかと考えていましたが、400席の大講義室はいっぱいでした。彼が心から語った一時間ほどの講義は、洞察とユーモアに満ちた感動的なものでした。彼の告別の挨拶は、死ぬことではなく生きることに焦点を当てたものでした。
さばいてはいけません
◆ 詩篇16-17
◆ 使徒20:1-16
さばいてはいけません。さばかれないためです。―マタイ7:1
イエスの「さばいてはいけません」(マタ7:1)という命令は、分別を働かせたり、間違いを認識したりするのは良くないという意味ではありません。私たちは、間違いや不正行為がたびたび起こる世界に暮らしているので、ものごとは当然、批判や分析を交えて考えていかなければなりません。イエスが言われたのは、決めつけたり、切って捨てたりすべきでないということなのです。パウロはこの教えを「あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」(Ⅰコリ4:5)と、説得力ある言葉で言い表しています。
私くらいの年の人
◆ 詩篇13-15
◆ 使徒19:21-41
年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、……告げ知らせます。―詩篇71:18
飛行機に乗ったとき、少し仕事をしようと、座席前のトレイにノートパソコンを広げ、バックアップ用ハードドライブやiPodなど、21世紀の「仕事師」にふさわしい電子機器を並べました。しばらくすると、隣の座席の若者が、ちょっと話してもいいかと聞いてきました。彼によると、私くらいの年の人が、現代の先端技術を喜々として受け入れているのは大変刺激になるというのです。彼は私を褒めようとしたのですが、私は突然、120歳になったように感じました。「私くらいの年の人」とは、どういう意味でしょう。結局のところ、私は57歳の「若輩者」にすぎないのです。