個人情報取り扱いについて
■個人情報保護の基本方針
日本アールビーシーミニストリーズは、みなさまが安心して「デイリーブレッド」等の冊子をお申し込みになれるように、みなさまの個人情報を正確かつ安全に取り扱うよう努めます。
1. 個人情報は、本人の同意を得た範囲内で利用し、また同意を得た範囲以外の第三者への提供・開示は行いません。
2. 個人情報への不正アクセス、個人情報の紛失、破壊、改ざん及び漏えい等に対して、技術面及び組織面において合理的で適正な安全対策を講じます。
3. 情報の主体となる方が、ご自身の個人情報の訂正、削除等を希望される場合には、合理的な範囲ですみやかに対応いたします。
4. 個人情報に関する法令及びその他の規範を遵守します。
■プライバシー・ポリシー
日本アールビーシーミニストリーズでは、メンバーのみなさまが安心して「デイリーブレッド」等の冊子をお申し込みになれるように、メンバーの情報の取り扱いについての透明性を重視し、以下のとおりのご案内をさせていただきます。日本アールビーシーミニストリーズは、メンバーのみなさまの情報を適切に保護するように、今後とも努力を重ねてまいりますので、ご理解、ご協力をいただきますようにお願いいたします。
■メンバー情報の利用目的
日本アールビーシーミニストリーズは、「デイリーブレッド」の定期送付を依頼された方の氏名、住所、電話番号、Eメールアドレス等の情報を取得し、メンバー登録をいたしますが、これらの情報は以下の目的に利用させていただきます。
1. 「デイリーブレッド」の発行
2. 新刊冊子などのお知らせ
3. 音楽CDなどの販売
4. 注文品の送付
5. 活動報告および加祷のお願い
6. より良い活動をするためのアンケート調査
7. その他、上記1から5に付随する業務の実施
なお、日本アールビーシーミニストリーズは、上記の業務を円滑に進めるため、RBCの各国事務所に業務の一部を委託することがあります。その際、メンバー情報の管理については、日本アールビーシーミニストリーズが責任をもって適切に監督いたします。
また、上記の業務を円滑に進めるために、情報処理会社、代金回収委託会社等に業務の一部を委託する必要が生じた場合、これらの委託先に必要な範囲でメンバー情報を提供することがあります。その場合、日本アールビーシーミニストリーズは、業務委託先との間で取り扱いに関する契約を結ぶなど適切な監督を行います。
日本アールビーシーミニストリーズのプライバシーポリシーについてのご質問は、FAX、Eメール、お手紙にてお受けいたします。
今も神の御手の中に
神学大学院に入学して新しくできた友人が、自分の話をしてくれました。夫は家族を捨てて出ていき、彼女は働きながらふたりの幼い子どもを育てていました。 最低賃金ぎりぎりの給与しかもらえない仕事をしていたので、家賃の安い、治安の悪い地域で暮らすことを余儀なくされていました。
私にも子どもがいたので、彼女に同情して尋ねました。「それで、子どもたちはどうしているの?」すると、彼女は答えました。「自分にできることはき ちんとして、神の御手の中に子どもたちを託しているのよ。」試練の真っただ中にあって、神を信頼している彼女の姿は、ヨブの姿を思い起こさせました(ヨブ 1:6-22)。
一年後、彼女から電話があり、今から一緒に葬儀場に行ってくれないかと言います。彼女の息子が、走行中の車から無差別に発砲された銃弾に当たって、 亡くなったのです。私は「彼女を慰める言葉を与えてください。説明できないものを説明しようとしませんように」と、神の知恵を祈りました。
あの日、彼女の傍らにいて再び驚かされたのは、他の人たちを慰める彼女の姿でした。神への堅い信頼は、このようなひどいことが起こっても、揺るがさ れませんでした。彼女は別れ際に、こう語りました。「私の息子は、今も神の御手の中にいるわ。」深い信仰を物語る、印象的な言葉でした。ヨブのように「罪 を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」のです(22節)。
私たちも日々主とともに歩むことによって、揺るがない信仰を育てることができます。
ハードルを超える
娘のデビーは幼い頃、バレエを習っていましたが、ある日、丸めたマットを跳び越える練習がありました。一回目は、マットに跳ね返されて失敗でした。デビー は呆然と床に座り込み、次の瞬間、泣き出してしまいました。私は飛んでいって彼女を起こし、大丈夫だよと言いました。そして、上手に跳び越えられるように なるまで、手をつないで一緒に走りました。デビーには、私の励ましが必要でした。
マルコとも呼ばれるヨハネは、バルナバとパウロの第一次伝道旅行に同行して奉仕する中、大きなハードルにぶち当たり、脱落してしまいました。バルナ バは、第二次伝道旅行にもマルコを連れて行こうとしましたが、パウロは反対しました。バルナバは、マルコにやり直しのチャンスを与えたかったのですが、パ ウロの目にマルコはお荷物でした。ついにふたりは別々の伝道旅行をすることになり、バルナバはマルコを連れて出かけました(使15:36-39)。
聖書は、マルコがバルナバの助けを借りて、どのように自らのハードルを超えていったか、何も記していません。しかし、彼は頭角を現していったに違いありません。マルコは「私の務めのために役に立つからです」と、後にパウロが書いているからです(Ⅱテモ4:11)。
失敗をして苦闘しているクリスチャンを見たら、助けてあげましょう。ハードルを越えるためにあなたの助けを必要としている人はいませんか。
なおも実を結ぶ
知らずに希望の種を蒔いていることがあります。収穫はずいぶん後にやってくる場合もあります。思いがけない時に、思いがけない方法で、あなたの信仰の実が結ばれるのです。
私の娘のメリッサは、幼いときに神の救いを受け入れました。しかし自分のことを、誰かの人生を変えるような偉大なクリスチャンだとは思っていません でした。彼女は、友だちづきあいを大切にしながら、学業やクラブ活動、そしてアルバイトにいそしむ普通の高校3年生でした。ただ、神に喜ばれるように生き ようとしていました。
しかし彼女は2002年、わずか17歳で天に召されました。すると、彼女の信仰や神に忠実な日々の歩みが、ひとり歩きを始めました。死は前触れもなく訪れ、人間関係を修復する間はありません。もはや「多くの実」を結ぶ、新たな機会はありません(ヨハ15:8)。
メリッサは、神に喜んでいただけるように日々を過ごそうとしました。そんな彼女の生き方は、今でも実を結び続けています。つい先日、ある若者が、クリスチャンのスポーツ・キャンプでコーチからメリッサの話を聞き、イエスを救い主として心に迎えたそうです。
私たちは皆、自分の人生の物語をつづっています。それは今だけでなく、将来に渡って誰かに影響を与えます。あなたは神を喜ばせようと生きていますか。神はいつ私たちをみもとに招かれるかわかりません。収穫に目を留めながら、毎日を過ごしましょう。
手を休める
母は礼拝中、指の跡が残るかと思うほど私の脚をぎゅっと押さえ、「じっとしていなさい」と小声で、しかしはっきり分かるように注意したものです。私は、教 会のような場所では落ち着きがないという典型的な男の子でした。そのため、長い間「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10 口語訳)というみことばを読むと、「そわそわするな!」と教えているのだと思っていました。
しかしヘブル語の「静まれ」という単語は、頑張るのをやめることです。自分の手を休めて、神に介入していただき、神におまかせすることを意味しま す。私たちは、物をかき分けて進んだり、自らを守ったり反撃したりするのに手を使うので、これは興味深い表現です。手をだらんと落とすと、神を信頼しない かぎり、無防備で危ういように感じます。しかし「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(1節)です。また「万軍の主はわれらととも におられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」(7節)は真理です。つまり、じたばたせずに、神が御業を成されるのを待ちましょう。
人生のどんな場面で困難に出会ったとしても、神の救いを祈りつつ辛抱強く待つなら、神の臨在と御力を信じて平安を体験することができます。神の御手があなたに代わって、忙しく働かれます。あなたの手を休ませましょう。
最も力のない人々
アメリカの経済サイト「24/7 Wall St.」に、「世界で最も力のない100人」という風変わりなリストが掲載されました。ここに名前を連ねている企業家、スポーツ選手、政治家、芸能人に共 通するのは、かつては力ある人だったということです。よんどころない事情で力を失った人、経営判断を誤って失脚した人もいますが、道徳的な過ちを犯して影 響力を失った人たちもいます。
使徒パウロは、コリント人への手紙第一10章で旧約聖書の歴史を振り返り、厳しい現実を教えました。イスラエル人たちはエジプトの奴隷でしたが、 モーセに導かれて約束の地に向かっていました。この人たちは、神が奴隷から解放してくださったのに、何度も神に背きました(1-5節)。彼らは、偶像崇 拝、不道徳な行為、不平不満をつぶやくことで、自分たちを滅ぼしてしまいました(6-10節)。そこでパウロは、「立っていると思う者は、倒れないように 気をつけなさい」と警告しています(12節)。
クリスチャンは、誘惑に襲われたとき、「耐えられるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(13節)という神の約束に堅く立つこと ができます。私たちはみな、他の人をイエスに近づける影響力が与えられています。神が試練に耐える力をせっかく与えてくださったのに、もし誘惑に負けてそ の影響力を失ってしまうなら、何と悲しいことでしょう。
タイミングがすべて
ずいぶん時がたってから知ったことですが、私にとっては偶然の出会いが、私の(未来の)夫にとっては、絶好のタイミングだったのです。教会の2階のバルコニーから私の姿を見つけた彼は、私が出てくる扉を推測するや、勢いよく階段を駆け下りました。そして、私より数秒前に出口にたどり着くと、さりげなくドアを開けながら声をかけ、今思いついたかのように食事に誘ってくれました。けれども実は、前々から計画していたのだとは、そのときは知る由もありませんでした。
絶好のタイミングというのは、人間にとって、そうたびたび起こるものではありません。けれども、神ははっきりとした目的とご計画を持っておられ、神のタイミングはいつでも絶好です。
聖書の登場人物たちを見れば、そのことが分かります。アブラハムのしもべがイサクの妻について祈ると、神はその祈りに応えて、相応しい若い女性を導かれました(創24章)。ヨセフは奴隷として売られ、無実の罪で投獄されました。しかしついに、彼は用いられました。神は、彼によって、多くの人々の命をききんから救われました(45:5-8、50:20)。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」(エス4:14)とモルデカイに促され、エステルは勇気をふるって行動します。
神のご計画がなかなか進まないと気を落としていませんか。神を信頼しましょう(詩 37:3)。神は絶好のタイミングで扉を開いてくださいます。
必要なのは従順
子どもの頃、親の家で生活するのは犠牲が多いと思っていましたが、今思えば、そんな不平は何とばかげたことでしょう。親から家賃を請求されたことはありません。私に必要とされたのは、親の言うことを聞くという従順さだけでした。自分の使ったものの後片付けをする、礼儀正しく、嘘をつかない、教会へ行くという、我が家の規則に従うことです。決して難しいことではないのに、従えなかったこともあります。しかし、だからといって、私は家を追い出されたりしませんでした。両親は、家の規則は束縛するのが目的ではなく、私を守るためにあるのだと、何度も教えてくれました。そして、私の自我から私を守るために、時には規則を厳しくしたりもしました。
イスラエルの民が約束の地で必要とされたものも、やはり従順でした。モーセは人生の最期に、神が祝福してくださるか否かは、民が神に従うかどうかにかかっていると言いました(申30:16)。モーセは以前にも「気をつけて…聞き従いなさい。それは…永久にしあわせになるためである」(12:28)と語り、主に従うことで良い人生を送ることができると教えました。
聖書は規則だらけだという人もいますが、それは私たちのためだと分かってほしいと思います。神の命令は、人間関係を良好に保ちつつ暮らすためです。神は、地球という輝かしい星を創造され、私たちをそこに住まわせてくださいました。従順とは、私たちが神の家族としてこの星で暮らしていくための、必要条件なのです。
満ち足りる
満足感を手に入れるのは簡単ではありません。信仰の英雄と目される使徒パウロでさえ、「満ち足りること」を習得しなければなりませんでした(ピリ4:11)。それは元々の性格ではなかったのです。
すべての状況において満ち足りているとパウロが手紙に書けたのは、非常に驚くべきことです。これを書いた時、パウロはローマで投獄されていました。パウロは、暴動を先導した罪や国家への反逆罪といった重罪で訴えられ、最高権力者であるローマ皇帝に直訴していました。彼には法に則った支援も、高い地位にいる友人もありませんでした。ですから、自分の訴えが取り上げてもらえるのを待つしかありませんでした。イライラしたり落ち込んだりしても当然だったでしょう。にもかかわらず、彼は満ち足りることを学んだと、ピリピ人への手紙に書いています。
では、どのように学んだのでしょう。きっと、過酷な状況にあっても満ち足りていられるように、徐々になっていったのでしょう。彼は、あらゆる境遇をも受け入れ(12節)、クリスチャンが差し出すどんな支援も感謝して受けました(14-18節)。何よりも神がすべての必要を満たしてくださると信じました(19節)。
自然に満ち足りたと思える人はいません。うらやましがる心が自分を人と比べさせ、不満を抱かせ、もっと欲しいと思わせます。パウロほどの窮地に陥る人は多くありませんが、私たちはみなそれぞれ、困難に直面します。そんな時こそ神を信頼し、満ち足りることを学びましょう。