Month: 1月 2013

解決済み

私はサッカーを見るのが大好きで、イングランド・プレミアチームのリバプール(愛称は「レッズ」)のファンです。ですから、レッズの試合はハラハラ、ドキドキしながら見ています。ひとつのゴール、ひとつのミスプレーが勝敗を左右するので、観戦中は興奮しています。このスリルがたまらないのです。ところが先日、レッズの試合の録画を見ました。何と平安な心で、それを見られたことでしょう。すでに結果が分かっているのですから、リラックスして選手の動きを見て楽しむことができました。

人生は、スポーツの試合の生中継を見るようなものです。将来のことは分かりません。ショックなことや、思いがけないこと、いらいらしたり、不安に感じることがあります。なぜなら、私たちには結末が見えないからです。ところが、クリスチャンには慰めが与えられています。この世の人生で起こる多くの事柄の結末は分かっていませんが、永遠という最終的な結末は、イエス・キリストの御業によってすでに決まっているからです。

使徒ヨハネは「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と述べています(Ⅰヨハ5:13)。人生には思いがけないことが起こるかも知れませんが、私たちにはキリストの御業による平安があります。私たちの永遠という最終的な結末は、キリストによってすでに決まっています。

神の贈り物

良い睡眠は健康に必要です。なぜそうなのかは、まだ科学的に解明されていませんが、睡眠不足が引き起こすさまざまな弊害は分かっています。睡眠不足は老化を早め、肥満の原因になります。また風邪やインフルエンザ、さらには癌に至るまで、多くの病気の遠因となります。神が私たちの睡眠時間中にしてくださることは、まさに奇跡です。私たちは何もしていないのに、神は私たちのエネルギーを補給し、細胞を修復したり再生したりし、脳内の情報を整理させてくださいます。

睡眠不足の原因は色々で、中には自分では解決できないものもあります。聖書は働きすぎで睡眠不足になってはいけないと語っていいます(詩127:2)。睡眠は感謝して受けるべき神の贈り物ですから、もし十分に眠っていないなら、その原因を突き止めなければなりません。余分なものを買うために、朝早くから夜遅くまで起きて働いていませんか。人には任せられないと思って、あれこれの奉仕に手を出していませんか。

自分が起きて神のためにする仕事は、自分が寝ている間に神がなさる仕事以上に大切であるかのように行動する誘惑が、私たちにはあります。しかし、睡眠という神からの賜物を受け取らないことは、「私の仕事のほうが、あなたの仕事より重要です」と神に申し上げているようなものです。

神は、仕事や奉仕の奴隷になってよい人がいるとは思っておられません。神の贈り物として、私たちが睡眠をゆっくり楽しむことを願っておられます。

目撃者の証

ザ・デイ・オブ・ディスカバリー(RBCミニストリーズ制作)が、テレビの伝記番組を作るとき、制作スタッフはその人をよく知る人に会って思いを語ってもらいます。そのインタビューは、スタッフにとって祝福です。この番組は長年にわたって続いているので、私たちは「炎のランナー」のモデルと言われるエリック・リデル師と中国の捕虜収容所で同室だった男性や、第二次大戦中にC.S.ルイス宅に下宿していた当時10代だった女性、また黒人奴隷の子として生まれながらも米国の農業に大きな業績を残したジョージ・ワシントン・カーバー博士がアメリカ南部を講演旅行した際の運転手などに会って、話を聞きました。この人たちはみな、それぞれの特別な思い出を生き生きと語ってくれました。

十二使徒のひとり、ヨハネは、晩年に書いた手紙の冒頭で、自分はイエスの共同生活者であり、イエスの生き方や御業の目撃者であると述べ、「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです」と記しています(Ⅰヨハ1:2)。また手紙の目的を「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)、「私たちの喜びが全きものとなるためです」(4節)と記しました。

目撃者である使徒たちの証言は、私たちを信仰に導いてくれます。私たちは、彼らのように自分の目で見ていなくても、信じることができます。

清算する

太陽がぽかぽか暖かいある日の出来事です。ガレージセールを開き、いらなくなった洋服や古本、食器類などを売ることにしました。掘り出し物を探す人たちの中に、白いビーズのネックレスをじっと見つめている若い女性がいました。ところが、少し目を離した隙に、ネックレスもさっきの女性の姿も消えていました。あたりを見回すと、立ち去ろうとする彼女の後姿が向こうに見えたので、走って追いかけました。声をかけると、手には例のネックレスが握り締められたままです。気まずい雰囲気の中、女性は盗んだネックレスの代金を支払うと申し出てくれました。

取税人ザアカイは、イエスを見たい一心で木に登りました。そしてイエスと出会い、変えられました。彼は、それまでに人からだまし取ったものは4倍にして返すと言ったのです(ルカ19:8)。当時の取税人は、人々から余分に税を徴収し、その上前をはねるのが常でした。だまし取ったものを返し、財産の半分を貧しい人たちに施すというザアカイの熱意から、彼の心に大きな変化が起こったことが伺えます。搾取していた人が、イエスと出会い、自分の行為の償いをした上、今度は施す人になろうと決意しました。

ザアカイの話は、自分も変わりたいと思わせてくれます。何かを取ってしまった、滞納している税がある、または、誰かを傷つけたなどの過去が心に浮かんだなら、それは神が示してくださったのです。清算しましょう。それは、神に栄誉を帰する行為です。

罪人が行くところ

私の友人は、あるとき、キリスト教を毛嫌いしている人と信仰の話をしていました。いかにもクリスチャンという証をしたら、ひどい拒絶反応が起こるだろうと分かっていた友人は、話の途中でこう問いかけました。「なあケンジ、じゃあ罪人はどこに行くか知ってるの?」

友人は答えました。「そんなの簡単さ。地獄だろ?」「いや。教会に行くんだ。」

予想外の答えに、ケンジはあっけにとられました。自分の不完全さを率直に認めるクリスチャンを前にして、どう返答すべきか分からなかったのでしょう。私の友人は証のチャンスを得ました。そして、クリスチャンは自分も罪深く、常に霊的に修復されなければならないと分かっている、と話しました。また、神の恵みについても説明することができました。神の恵みとは、罪人の私たちに分不相応な、神のあわれみの行為です(ロマ5:8-9、エペ2:8-9)。教会の外の人たちは、本来の教会をイメージできるでしょうか。「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得て」(コロ1:14)いると信じる人たちが、救い主をたたえるために集まっているところが教会だ、ということがうまく伝わっているでしょうか。そうではないかもしれません。

そうです。罪人は教会に行きます。そして、赦された罪人は、神の恵みによって天国に行きます。

十分に整えられる

医療用メスの開発者でスイス人のカール・エルズナーは、何年もかけて軍仕様のナイフを制作しました。19世紀のことです。このスイスアーミーナイフは、その鋭い切れ味と多機能性で今日でも多くの人に知られています。小刃、金属のこぎり、はさみ、ルーペ、缶切、ドライバー、定規、ボールペンなど、多彩なツールがセットされていて、野外でキャンプをする人たちに、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれるのです。

私たちクリスチャンにも、罪にまみれたこの世を正しく生き抜くために、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれる何かが必要です。そのために、神はご自身のみことばをくださいました。パウロはこう語っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ3:16-17)。

「整えられ」ると訳されている単語は、「完全に適応させる」または「きちんと取り付ける」という意味です。聖書は次のようにして私たちを整えてくれます。第一に、「教義」という霊的真理が与えられます。次に、私たちの不完全な部分を示し「戒め」てくれます。さらに、私たちが罪を犯したとき、それを示して「正して」くれます。最後に、正しい人生を生きるために「指導」してくれます。

神のみことばほど価値あるツールはありません。みことばは、私たちが信仰者として歩み続け、霊的な成長を遂げるために不可欠なものです。

何のかかわりがありますか

母の日礼拝などで特別賛美をするとき、子どもたちが指揮者に注意を向けることはありません。もじもじしたり、隣の子をつついたり、会衆の中に親を探そうときょろきょろしたりします。もちろん、口を動かして歌っているときもありますが、それでも指揮者を見てはいません。とはいえ、このような子どもの様子は可愛らしいものです。

一方、大人の聖歌隊は違います。全員がきちんと指揮者に注目しなくてはなりません。美しい賛美は、こうしてひとつになることによって初めて可能だからです。

私たちクリスチャンは、子どもたちの特別賛美のようではないでしょうか。まわりの人に気を取られて、人生の指揮者であられるイエスにしっかりと注目していないのではないでしょうか。

イエスは、ペテロのこのような態度を正されました。ペテロは、自分の将来について聞かされた後、「この人はどうですか」と尋ねました。するとイエスは「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と答えられました(ヨハ21:21-22)。

私たちは、人のことが気になって心が乱れることがあります。自分に備えられた神のご計画を他人のものと比べて、うらやましく思うことがあります。しかし、すべての人に備えられた神のご計画の本質は同じです。それはすなわち、イエスに従うことです。イエスをしっかりと見つめましょう。そうすれば、他人のことを気にして心を乱すことはなくなります。

小休止

バルセロナから車で2時間ほど北にあるレストラン「エル・ブリ」は人気店で、6カ月先の予約まで一杯です。ところが、オーナーシェフのフェラン・アドリアは、多数の賞に輝いたこの店を2年間閉めることにしました。スタッフと一緒に将来のことをゆっくりと考え、革新的な計画を立てるためです。アドリアはヘミスフィア・マガジンの取材に答えて「いくつもの賞を取っているのになぜ変革するのか」と質問され、「毎日15時間も働いていたら、創造的なことはほとんどできません」と答えました。この人たちは、成功のただ中にあって最も大切なものを優先し、それに十分な時間を取ろうとしていたのです。

紀元1世紀のアンテオケの教会は、「…大ぜいの人が信じて主に立ち返った」(使11:21)ために、驚異的な発展をとげました。バルナバは新しく信じた人たちを教えるために、サウロ(後のパウロ)をタルソから連れて来ました(25-26節)。彼らは熱心に奉仕しましたが、それと平行して祈りと断食の時間をとって、主のみこころを求めました(13:2-3)。そのような中、神はアジヤに福音を伝える計画を彼らにお示しになりました。

フェラン・アドリアのように、考えたり計画したりするために2年間休業できる人はまれですが、どんな人でも熱心に祈る時間を生活の中に組み入れることはできます。神に向かって心を開いて熱心に祈るなら、神に栄誉をもたらす人生の歩みや奉仕が何であるかを、主は必ず示してくださいます。

 

幸せバイキング

ファミリーレストランのテレビ広告で「当店で幸せバイキングを!」と宣伝しているのを見ました。フライドポテトやパスタやグラタン、サラダやケーキをファミリーレストランで食べるだけで幸せになれるなら、何と手軽なことでしょう。しかし残念ながら、そのように約束できるレストランはひとつもありません。

幸せをつかむことはなかなかできないと、人生が教えてくれます。もちろん、食べ物や他の物が手に入ることも幸せには違いありませんが、いずれはそれが当たり前になって、次の「幸せ探し」が始まります。それはおそらく、手に入れたものが、心の奥底から必要なものではなかったからでしょう。幸せになろうと、ちょっとした気晴らしや娯楽を求めて、それが手に入ったところで「助けて欲しい」とか「希望がほしい」という心の叫びには応えてくれません。それゆえ、詩篇の作者は「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は」と語り、幸せになる最良の方法を示してくれます(詩146:5)。

主のうちに幸せを求めるなら、あなたは大丈夫です。主と主の計らいに自らを委ねた時にだけ、私たちは探し求めていた幸せを見つけるからです。助けや希望は、主を信頼して初めて手にすることができます。