私は少年野球チームの監督をしていますが、初めの試合で顔面にデッドボールを受けた選手がいました。幸いけがは無かったのですが、当然のことながら心理的なダメージを受け、ボールを怖がるようになりました。毎試合、勇気を奮い起こしてバッターボックスに入るのですが、全く打てません。この状態はシーズンの終わりまで続きました。
シーズン最終戦。私たちのチームは大差で負けていて、意気消沈していました。そんなとき、あの選手が打席に入りました。カ~ン!鋭いヒットです。みんなびっくりして、選手たちは大騒ぎ。彼の両親も、他の選手の親たちも大声援を送りました。まだ大差で負けていたのですが、監督も飛び上がって喜びました。みんなこの少年を愛し、応援していたからです。
神も同じです。私たちを応援しておられます。私たちを深く愛し、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペ3:18-19)と願っておられます。
神は自分たちが失敗しないかと見張っていて、しくじると罰する厳しい存在だと考えている人がいます。そのような人たちに神の深い愛を伝えられるのは何という特権でしょう。神はご自分のひとり子を世に遣わされ、その御子を世の人の罪の贖いとして、十字架にはりつけにされました。それほどまでに私たちを愛し、応援しておられます。このことが分かったとき、人々はどれほど嬉しく思うでしょう。
十字架上で釘で打たれたイエスの御手は、愛に満ちた神のみこころを現している。