Month: 11月 2018

神の臨在

心配げな父と青年は霊媒師の前に座りました。霊媒師は「あなたの息子はどこに行くのですか」と尋ねました。父は「大きな町まで。そして長い間、帰ってきません」と答えました。霊媒師は彼にお守りを手渡し「どこに行こうと、これが彼を守るだろう」と言いました。私がその青年です。しかし、霊媒師もお守りも役に立ちませんでした。その町にいる間に、私はイエスを信じ、お守りを捨ててキリストにしがみつきました。人生にイエスを迎えたことで、神の臨在が保証されました。

私たちにできること

モーリー・ブーガート氏は92歳で、一人でベッドから降りることができませんが、ホームレスのために帽子を編み、その数は15年間で8千個以上です。彼は、「自分の問題に焦点を当てず、人のためにできることをする。そうすれば、自分の気分も良くなるし、目的も与えられる」と語りました。そして「主のもとに行くまで続ける」と言っていましたが、2018年2月に召されました。帽子をもらった多くの人は、ブーガート氏の犠牲を知りませんが、最後まで愛を貫いた彼の生き方は、世界中の人たちに影響を与えました。

父と子

私の父は良い父親で、私も大方のところ素直な息子でした。しかし、父に心を見せていたとは思いません。父は無口な人で、私もそうでした。私たちはよく並んで何時間もともに働きましたが、会話はほとんどありませんでした。父は何も尋ねず、私も自分の希望や夢、不安や恐れを明かすことはありませんでした。

申し訳ない

マックギーは冤罪で4年間服役しました。コリンズが2005年にある報告書を改ざんしたためです。無罪が証明されたのは、すべてを失った後でした。彼は復讐を誓いました。一方、コリンズは多数の報告書を改ざんしたことが発覚して解雇され、服役しました。ふたりは各々、刑務所でキリストと出会いました。

みことばに根ざして祈る

聖書は、私たちと同じような願いを持っていたり、同じような失望を経験したりした人々によって書かれたものです。彼らも、時にはうろたえました。何も答えてくださらない神に叫び求めることがどのようなことか、また、絶望的な状況に直面することがどのようなことか、さらに、自分でコントロールできない強い感情に襲われることがどのようなことなのかを知っていました。ですから、聖書に記されている人々は、私たちの大切なお手本です。なぜなら、彼らは、そのような状況を生き抜いて、喜びと自信を回復したからです。

失望や恐れを乗り越えていこうとするとき、聖書の筆者たちの考えをもとにして、自分が何を考え、何を祈るべきかを知ろうとするなら、新たな希望が湧いてきます。詩篇42篇は、このことを考えていくのに好都合な聖書個所です。詩篇の作者は、この個所で、飢え渇き、打ちひしがれた心をたずさえながら神に叫び求め、自分の感情を正直に言い表しました。その結果、忘れていた真理を再発見しました。

まず、詩篇42篇から聖句をいくつか引用しましょう。それから、みことばに根ざして祈るというのはどういうことかをともに見ていきましょう。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。(詩篇42:1~2)

主よ。このみことばは、私の心がどれほど空虚であるかを示しています。私は、とても渇いていて疲れています。そして、生活に疲れています。私にはもう力がありません。あとどれくらい頑張れるかわかりません。主よ。あなたが助けてくださらないなら、私は何もできません。いつか、あなたの御前に立つ日が来ることは知っています。しかし、いまあなたの御声を聞きたいのです。何を私に求めておられるのですか。何をせよと私におっしゃるのですか。

私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。 」と私に言う間。(3節)

父なる神よ。あなたはどこにおられるのでしょう。なぜ私を助けてくださらないのですか。今まで何の疑いもなくあなたを信頼してきました。かつて私は、人々の前で、「主は、なんと忠実で信頼できるお方だろうか。」と話したことがあります。しかし、今、その話をした人たちに会うと、恥ずかしいと感じてしまいます。

私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(4節)

主よ。以前はまったく違っていました。昔は、あなたの民と一緒に、あなたの祝福を楽しんでいました。私たちは、ともに笑い、ともに祈りました。しかし、今はとても孤独です。あのような楽しさは、もう二度と経験することはないように感じています。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5節)

そうです。主よ。頭では、よくわかっているのです。自分のつぶやきを聞いていると、心の奥底から、あなたをまだ信じていると言う声が聞こえてきます。あなたに見切りをつけることは正しくないとわかっています。詩篇の作者のように、あなたの知恵を信じています。定められたときが来れば、私を助けてくださると信じています。笑える日が、もう一度やって来るでしょう。あなたをほめたたえる日がいつか必ず訪れることはわかっています。主よ。私は、どれほどその日を待ち望んでいるでしょう。それを言葉で言い表すことはできません。

昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。(8節)

私は、あなたの慈しみをもう一度経験できる日が来ることを心から信じています。1日の終りに喜びの歌を、歌う日々が来ることを信じています。

私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」(9節)

でも、父よ。あなたが助けてくださることはわかっていますが、まるで打ち寄せる波のように不安がやってくることがたびたびあります。あなたを信じていますし、あなたが私の岩、私の避けどころであることは知っています。しかし、それでもなお、私は忘れられているのではないかと感じます。孤独感に苛まれます。どうして、あなたの子どもである私が、あなたをほめたたえることよりも、嘆き悲しむことに時間を費やさなければならないのでしょうか。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(11節)

そうです。主よ。何があっても私はあなたをほめたたえます。あなたは、私にとってただひとつの希望です。私は、あなたをほめたたえます。あなたが良きお方だからです。あなたを疑ったことをお赦しください。私は、あなたを待ち望みます。私は、あなたを待ち望みます。この喜びをもう一度心に満たしてくださるあなたを!

様々な状況のもとで祈るべき聖句

  • 危険に直面しているとき (詩篇91篇)
  • 気持ちが沈み込んでいるとき(詩篇34篇、139篇)
  • 心配しているとき(ピリピ4章)
  • 危機的状況に直面しているとき(詩篇121篇)
  • 失望を感じているとき(詩篇23、42篇;イザヤ40章)
  • 誘惑を感じているとき(詩篇1篇;Iコリント10章)
  • 孤独を感じているとき(詩篇27篇)
  • 勇気を必要としているとき(ヨシュア1章)
  • 赦しを必要としているとき(詩篇32、51篇)
  • 疑いが心の中にあるとき(ヘブル11章)
  • 神からの保証を必要としているとき(ローマ8章;Iヨハネ5章)
  • 感謝しているとき(詩篇136篇)
  • 喜びを感じているとき(詩篇100篇)

今度祈るとき

今から祈る祈りは、あなたの人生を変えるでしょう。本冊子の4ページを見てください。「祈りについて言うならば、私は___________。」という文の空欄に何を書き入れるでしょうか。5~6ページに記されている3つの失望のうち、どれがあなたに影響を与えているでしょうか。

今こそ行動するときです。神の助けをあおいで決断し、行く手を阻むものを退けて、思いのままに祈り始めてください。失望しても、それに捕らわれて次に進めないということが起こらないようにしましょう。ピューリタンには、「祈れるようになるまで祈り続けるように。」という格言がありました。祈り続けてください。そうすれば、やがて新たな確信を得て祈れるようになります。

一方、最初からやり直さなければならない、という場合もあり得ます。この冊子を読んでいて、自分と神との間には、はたして個人的な関係があるのだろうか、と思った方があるかもしれません。また、自分は罪人である、と気づいた方があるかもしれません(ローマ3:23)。しかし、次のことを知っていただきたいのです。

  • 自分で自分を救うことはできない (エペソ2:8~9)
  • 罪なき神のひとり子イエスは完璧な一生を生きられたが、そのようなことは私たちにはできない(Iペテロ2:22)
  • イエスは、私たちが支払わなければならない罪の代価を、私たちに代わって十字架の上で支払うために死んでくださった(Iコリント15:3~4)
  • イエスがよみがえってくださったことによって、イエスのささげてくださった犠牲が神に受け入れられるものであることが証明された(黙示録1:4~6)
  • 私たちは、信仰によって、主イエスを救い主として受け入れる(ヨハネ3:16)

自分で自分の罪の代価を支払わなくてもよいように、神に祈ってください。あなたを助けてくださる神を信じましょう。これが、あなたの祈りの中でもっとも大切な祈りです。救いを求めて祈る祈りこそが、あなたが神にささげるすべての祈りの揺るぐことのない基盤です。

基本に戻るー仲介者を通して神に近づく

イエスが神と人の仲立ちをするというアイデアは、神から出たものです。神は、人が神をなかなか信頼しないということをご存知でしたが、人を無視しようとはお思いになりませんでした。それで、仲介者を立てることにされました。神と人との橋渡しをするために、神のひとり子イエスが私たちのもとに送られたのです。イエスは、人が置かれている状況を理解し同情してくださるお方でしたが、同時に、天の御国を代表するお方でもありました。

イエスは、人となられてこの地上で暮らし、私たちの抱えている問題に深く関わられたので、ついには、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)と叫ぶまでになりました。しかし、その3日後には、死に勝利を収められたことが明らかになります。私たちのために来てくださった仲介者イエスは、大きな犠牲を払って、神と人とを隔てていた障壁を取り除いてくださいました。

それでもなお、私たちは罪を犯すでしょう。欲望に目がくらんだり、頑固に意地を張ったりすることもあるかもしれません。後悔の念にかられることも、神のみこころがわからなくなって途方に暮れることもあるでしょう。しかし、神の愛を疑うことはもうできません。父なる神は、無関心・無感動で、私たちを放ったらかしにしていると、誰かがまことしやかに語ったとしても、それに同意することはないはずです。神は、私たちと語り合いたいと切に願っておられます。その願いは、私たちが神と語り合いたいという願いよりもはるかに強いものです。ですから、私たちは安心して、「神よ、…」と祈り始めることができます。

イエスの仲立ちがないなら、神が私たちの祈りに耳を傾けてくださるかどうか、確信は持てません。置かれている状況から「神は私のことなど気にかけてくださらない。」と判断するかもしれません。しかし、仲介者イエスが十字架の上でなしてくださったことを思い出せば、安心して神に近づき、祈れます。「私は罪人です。」と恥じ入りながら神の御前に出ていくのではありません。「私は、◯◯です。」と、自分の名前を書いたプラカードを誇らしげに掲げて御前に進み出るのでもありません。ふさわしい言葉を厳選して祈ることができるので大丈夫だ、ということでもありません。ご自分の血潮で私たちの罪の報いをひとつ残らず引き受けてくださったイエス・キリストが仲立ちしてくださるので、このお方の御名で、私たちは神の御前に進み出るのです。

すでにささげられたいけにえを信じる。このように祈れるのは、神のご計画によるものです。仲介者イエスがこの地上においでになるはるか以前から、イスラエルの民は幕屋や神殿で礼拝をささげていました。何世紀にもわたって、神がはっきりと示しておられたことは、人は血によるいけにえをささげることを通してのみ神に近づけるという事実です。ところが、キリストが地上に来られて苦しまれたのを見て、人は、やっと理解しました。過去の血によるいけにえは、神のひとり子イエスの過酷な苦しみと死を暗示していたのです。

幕屋の中には香をたく壇がありましたが、それはまさに神の臨在を象徴する場所でした。そこで香がたかれるのですが、その芳しい煙が立ちのぼる様子は、神を喜ばせる祈りを象徴しています。重要な点は、香を燃やす火がいけにえの祭壇の炭火だという事実です(出エジプト30:7~10)。神の目から見て、いけにえと祈りは、明らかに関連しています。そして、私たちは、この両者によって神の御前へ進み出ます。

このようないけにえと祈りの関係は、仲介者であるイエスが、私たちのために備えてくださったものです。イエスは、神がよしとされたいけにえとなってくださいました。そして、私たちがイエスの御名によって神の御前に進み出ることを促してくださいました。このような確信に基づいて、ヘブル人への手紙の著者は、次のように記しています。

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:14~16)

この聖書個所に記されているように、神の御前に近づくのは国王の謁見の間に入っていくようなものです。昔、ヨーロッパやアジアの王国では、王座の置かれた謁見の間はこの上なく華やかに飾られ、数多くの従者が控えていました。普通の人は、そのような部屋に入ったら、劣等感と威圧感で圧倒されます。祈りの中で神に近づこうとすると、これと同じ気持ちになります。しかし、キリストが理解してくださり仲立ちとなってくださるので、私たちは、「招かれざる客」になることを恐れたりせず、安心していつでも神の御前に進み出ることができます。私たちは、王家の紋章が押印された招待状を持っています。そこには、いつでも、どこでも、どんな問題であろうと、どんな必要であろうと、まず祈りなさい、と書かれています。これが「恵みの御座」です。恵みとは、受ける資格のない者に向けられる神のやさしい心遣いです。見返りなしに与えてくださる神の助けです。これこそが、仲介者イエスが私たちのために確保してくださったものです。

今も私たちを弁護してくださるイエスを信じる。イエスの働きは、今も続いています。 私たちは、仲介者イエスを信じているので、「恵みの御座」に進み出ます。イエスは、今でも神の右に座しておられ、私たちのためにとりなしていてくださいます(ローマ8:34)。私たちのための犠牲となってくださったイエスは、私たちのとりなし手になられました。主は父なる神とともに王座にいて、私たちのためにとりなしておられます。使徒ヨハネは、次のように言っています。

「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(Iヨハネ2:1~2)

なぜ、躊躇するのでしょう。イエスは、ご自身が犠牲になられただけでなく今も私たちのために父なる神にとりなしてくださっています。それなのになぜ祈ることを躊躇したり、自分にはその資格がないと言ったりできるのでしょうか。

祈れないとき

祈りについて聖書から学ぼうと集まった独身の人たちに、私は一枚の用紙を配りました。その一番上には、こう書かれていました。「祈りについて言うならば、 私は__________ 。」私は出席者全員に、適当と思われる言葉をその空欄に書き込んでください、と言いました。

あなたなら何を書きますか。話を進める前に、あなたもこの空欄を埋めてください。そうすれば、いくつかのことに気づかれるでしょう。

「祈りについて言うならば、私は_______。」

そこにいた人たちが書いたことをまとめると、以下の3つのカテゴリーに大別できます。

  • 「祈りが足りない。」
  • 「何を祈ればよいのかわからない。」
  • 「祈って何か良いことがあるのかどうかわからない。」

これは、よくある答えです。祈っているとき神と自由に会話できる、という人もいます。しかし、祈りは、たいていの人にとって、勝つこともたまにはあるが往々にして負けることの多い戦いだ、と受け止められているようです。祈りは簡単だ、となかなか言えないのが普通です。祈りは、自分の気持ちを神にぶつけることではありません。それは、どんなに小さくて弱くても、その人の信仰の表れです。また、霊的な戦いに勝利するための武器でもあります。祈りは、神とどのように関わっているかを反映していますが、神との関係は、私たちが無知だったり不注意だったり、また鈍感だったりすることがあるので、良好とは言えないこともしばしばあります。祈りは、神を信頼していることの証であるはずですが、信頼が失望にかわることもめずらしくありません。

クリスチャンになりたての頃は、大きな期待に胸をふくらませて祈ります。本当に欲しいものがあるならそれが与えられるし、孤独から解放され幸福感に浸れると信じています。また、神を信頼してさえいれば、どんな問題でも乗り越えていけると信じています。

ところが、大切なことを祈ったのに答えられなかったという体験をします。病気の友だちに、「早くよくなるように祈っているよ。」と言って安心させようとしますが、回復の兆しはありません。家族の前で、自分たちが抱えている問題が解決するように祈りますが、その祈りは無視されているかのように、何ヶ月たっても事態は好転しません。信仰を離れてしまった家族や友人が戻ってくるように心を込めて祈りますが、そのようなことはいっこうに起こりません。

このようなことを経験すると、失望感が少しずつ心の中に広がっていきます。祈りに対する熱が冷めていき、食前に祈るだけになっていきます。そして、二度と拒絶されたくないので本当に気がかりなことを主の御前になど携えて行かない、という段階を通り、ついにはまったく祈らなくなってしまいます。

あなたの祈りはいかがですか。祈りの成長が、あるレベルで足踏みしているなら、それは心の底から祈ることに失望したからではありませんか。

  • 神に失望している。「神が娘の病気を治してくださる、と信じて祈りました。しかし、結局、ガンとの闘いに敗れて、娘は死にました。私は悲しくてたまりません。この現実をどう受け止めてよいのかわかりません。」
  • 他の人に失望している。「私の人生をめちゃくちゃにした人たちに強い怒りを感じているので、祈れません。」
  • 自分自身に失望している。「祈りたいとずっと思ってきました。今日こそは、といつも思っているのです。しかし、それができずに今日まで来ました。」

一旦こじれた人間関係を修復するには、信仰と勇気が必要です。神との関係についても、同じことが言えるでしょう。最初のステップは、問題があることを認めることです。そして、失望を乗り越え、神を信頼する心を取り戻さなくてはなりません。私は、読者の方々がそういう信仰を持てるようにお役に立ちたいと願ってこの冊子を書きました。

しかし、本題に入る前に、少し個人的なことを書かせてください。私は、失望するとはどういうことか、ほんの少しですが知っています。色々なことがありましたが、孫のネイサンのことでは、心がかき乱される体験をしました。可愛い孫のネイサンは、免疫機能不全という障害を背負って生まれてきました。彼の小さな体には、病気と闘う力がありません。生後1~2年の間、何度も気管支炎に冒されました。私たち家族は、苦しんでいるネイサンを無力感に苛まれながら見守ること以外、何もできませんでした。神は、私たちの祈りを聞いておられないかのようで、ネイサンは幾度となく入院しました。そのたびに、家族全員が恐怖に襲われました。これほど大切なネイサンのために祈っているのに、神がその祈りに答えてくださらないなら、どうして神を信じられるでしょうか。

担当医は、このような子どもの60パーセントは3歳前後で免疫機能が働き出す、と言いました。これは、いくばくかの希望を与えてくれましたが、残りの40パーセントの子どもは感染症に対する免疫機能がないまま成長する、という事実が突きつけられた、ということにもなります。私は、自分で自分を守る力を持っていない孫を見て、幾度となく祈りました。

最初の頃は、「もし~だったらどうしよう。」と考えるばかりで、疲れ果てていました。ところが、時が経つにつれて、祈りの内容が変化していきました。心配で心が張り裂けんばかりだ、という気持ちは徐々に薄れ、祈るときの言葉数も減っていきました。 ただ、絶えず彼のために心の中で闘っていました。最後には、こんなシンプルな祈りをするようになりました。「主よ。最善をなしてください。ネイサンにとって何が最善かは、あなただけがご存知です。あなたを信じます。あなたが良きお方であることを信じます。あなたがネイサンを癒してくださるように心から願っています。でも、みこころのとおりにしてください。」ネイサンが3歳になった頃、感染症に冒される回数が減ってきました。そして、検査の結果、神はネイサンをあわれんでくださり、免疫が働く60パーセントの子どもの中に入れてくださったことがわかりました。

私は、自分ではまったくコントロールのできない状況を通り抜けながら、「祈りの学校」で、神を信頼することを学びました。祈りが答えられた喜びと感謝を体験しました。かなわなかった祈りには、神の知恵が働いていたことも知りました。また、神との交わりを楽しみながら祈りの答えを待つことも学びました。

知らない間に失望していることが、今でもあります。ふと天候をコントロールしたエリヤのような祈りの力(ヤコブ5:16~18)がほしいと思ったりします。しかし、いろいろな経験を通して学んだことは、確信を持って祈るとは神に自分の願いを一方的にしゃべることではない、ということです。いくつかの単純ですが大切な原則を学んだので、今では、確信を持って祈れます。この原則は、雄弁さや霊的洞察力といった能力が高いか低いかにかかわらず、「主がお建てになった祈りの学校」で誰もが順序だてて学べるものです。これから、祈りの基本に戻って、5つの原則を順番に見ていくことにしましょう。

基本に戻るー自分に正直になる

神は、自分の気持ちを正直に話す人を好まれます。現実を直視することは、神ご自身のご性質の中心です。そして神は、暗やみや欺きを嫌われます。暗やみは、サタンの領域だからです。ですから、確信を持って祈るためには、自分の気持ちに正直にならなくてはなりません。神は、私たちが文句を言ったり愚かなことをしてもビクともされません。私たちが恐れを感じたり、失敗したりしたとしても動じる方ではありません。私たちが怒ったり混乱したり、あるいは幼稚な願いごとをしても、驚かれたり、圧倒されたりすることはありません。

神を喜ばせないことが何かと言えば、安っぽいおせじや、表面的で心のこもらない賛美、そして、祈り手の心の中で実際に起こっていることにはまったく触れず、同じ言葉を繰り返すだけの不誠実な祈りです。私たちは、うそがばれないように取り繕うことや、手の込んだ小細工、そして、長々と形式的な言葉を連ねて祈ることをやめなければなりません。

みごとな口調で語られても内実のない祈りは、祈る人の本音を反映していないばかりでなく、神に拒絶される祈りです。恵みの御座に近づき確信を持って祈るために、まず本音で祈ることを学ばなければならないのは、そういう理由があるからです。最初に、自分で自分を吟味して罪を告白する時を持たなければなりません。そして、神ご自身について本当はどう思っているのか、また、自分の自己イメージや生活の必要、さらに、満たされない思いや願い、そして過去の不快なできごとなどについて何をどう感じているのかを神に正直に打ち明けなければなりません。また、神のみこころを実行したいと願っていることも率直に話さなければなりません。もし、そう願っていないなら、それもはっきりと認めなければなりません。そうすれば、神ご自身に助けを求めて、神への反逆と自分の愚かさを乗り越えられます。

自分自身を知るために神が力を貸してくださることを信じる。人の心の中をすっかりご存知の主は、本当の自分の姿を知りたいと思う人には、それを教えてくださいます。詩篇の作者は、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」と記しています(詩篇139:1)。ダビデは、ソロモンに向かって、「主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られる」と言いました(I歴代誌28:9)。

自分自身を吟味する祈りと、みことばとが組み合わされると、自分の心の中で何が起こっているのかがわかります。聖書は、心の奥底にある感情を引き出してくれます。また、本当の動機は何なのかを示してくれます。誰にも言ったことがない恨みや憎しみ、心の奥底に封じ込めた怒りの一つひとつを思い出させてくれます。正直に祈ることを通して、これらのものが心の中にあることを知り、それらが一体何なのかを知るなら、神に助けていただいて対処できます。

私は、確信をもってこう言えます。「私の心の中に何があるのか教えてください。」 と祈るなら、神はそれに答えてくださいます。たぶん、すぐにではないでしょうが、タイミングと方法を選んで少しずつ教えてくださいます。人は、自分に不都合なことは意識の中から抹殺したり、心の奥に押し込んでフタをしたりします。ところが、神はそのフタを開けて、その人に自分の本当の姿を見せてくださいます。そして、それをなさっている間、いろいろな配慮をしてその人が耐えられるように守ってくださいます。

  • 神は、私たちがほったらかしにしていた自分の心の古傷をまず思い出させ、それに立ち向かわせ、最後には癒して忘れさせてくださるでしょう。
  • 神は、果たしていない約束や、返していない負債があることを思い出させてくださるでしょう。
  • 神は、私たちがかつて誰かを傷つけたことがあるなら、その人に与えた心の痛みを自分のこととして感じるようにされ、過去を完全に清算するように命じられるでしょう。
  • 神は、誤解があるならそれを解いたり、人を赦したりするように命じられるでしょう。

今までわからなかったことが心の底からわかることは、神からのすばらしいプレゼントで、人を自由にしてくれます。そのプレゼントは、祈りの中で主に対して正直になることによって与えられます。

自分自身を正直に見つめると、神が与えてくださる祝福が何であるかがわかります。神は、私たちの心にいつも働きかけてくださり、私たちのためにいろいろなことをしてくださいます。親切にしてくださり、恵みで満たしてくださいます。試練に負けずに成長できるように援助してくださり、苦難を乗り越えられるように支えてくださいます。また、誘惑から逃れる道を備えてくださいます。そして、神ご自身の平安を与えてくださいます。しかし、生活の雑事に追われていたり、諸々の責任に心を奪われていたりすると、時には神が与えてくださるこれらの祝福を忘れてしまいます。

正直な人を赦される神を信じる。野球の試合で、9回の裏を同点で迎えたとしましょう。自分たちのチームが守っていて、ツーアウト満塁。バッターが三遊間に鋭いゴロを打つと、ショートを守っていた新人はボールをはじいてしまいました。3塁走者がホームベースに駆け込み、相手はサヨナラ勝ちです。味方のショートは、このようなゴロを過去に何千回も処理してきました。しかし、このときはエラーしました。

その選手は、いろいろな言い訳ができました。ボールが、小石にあたってバウンドが変わったのでキャッチできなかったとか、太陽が目に入ってまぶしかったとか、芝生が濡れていたからエラーしたんだ、とも言えたでしょう。しかし、彼は、ゲームの後で言いました。「ヘマしちゃったよ。負けたのはボクのせいさ。」

私たちは、神に対してもこのような態度を取る必要があります。主が私たちに罪があることをはっきりと示されたなら、それをしっかり受け止めて告白し、悔い改めた後は、神が私たちを赦してくださる、と信じなければなりません。

ダビデとナタンの話を覚えていますか。王位についたあと緊張感が途切れてしまったダビデは、将軍たちに戦争をさせて、自分は国に留まったままでした。ある日、彼は、水浴をしていたバテシェバを見て情欲に燃えました。そして彼女を王宮に連れ込んで姦淫し、その上、自らの罪を隠ぺいするために彼女の夫を殺させました。事件は首尾よく片付いたかのように見えました。しかし、ナタンがダビデに詰め寄って、「あなたがその男です。」(IIサムエル12:7)と、強く非難しました。

ダビデは、何日、おそらくは何カ月もの間、神から離れた暗闇の中で過したのち、ついに自分の罪を認めました。感動的なダビデの悔い改めの祈りは、詩篇51篇に記されています。ダビデは神にこう告白しました。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」(詩篇51:3~4)ダビデは、主とともにある喜びを再び感じられるように祈りました。神はダビデを赦し、彼の祈りに答えてくださいました。現代社会に生きる私たちが、もし自分の罪を覆い隠そうとするなら、聖書と聖霊、そして神の民であるクリスチャンの友人たちがナタンの役割を果たし、私たちに警告するでしょう。

私たちが生きている世界は、心が頑(かたく)なで、善悪の区別がつかない人たちで満ちています。弁護士は、たとえ依頼人が有罪であるとわかっていても、誠実さを装い、法廷術を駆使して被告人を弁護します。そして被告人は、自分が犯した恐ろしい犯罪に対する判決を、ひとかけらの自責の念も感じずに聞くのです。私たちは、事実を否認すること、もっともらしい理屈で言い逃れること、そして責任を別の人や物になすりつけることの達人です。また、氷のように冷たい心で人に接することに慣れています。どうすれば、このような心を和らげることができるでしょうか。どのようにすれば、 主がいつでも受け入れてくださる、「砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)を持てるでしょう。神に祈り求めましょう。私たちは、こう祈らなければなりません。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)神はその祈りに答えてくださいます。私たちが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)と祈るなら、神は私たちに背を向けたりはなさいません。

神が私たちの感じている不満を取り扱ってくださると信じる。人間関係には、意見の違いや、もめごと、そして反目がつきものです。うまくいっていると思っていても、それは誰かが自分の気持ちを押し殺しているので、対立が先延ばしになっているという場合がほとんどです。夫婦や親友なら、相手に対する否定的な感情を率直に打ち明け、話し合って、それを乗り越えていこうとします。これと同じことが、神との関係にもあてはまるはずです。私たちには、祈りを通して、神を敬いながらもなお神と意見を異にし、神に疑問をぶつけ、神と議論さえする自由が与えられています。

ユダヤ教のラビであるジョセフ・テルシュキンは、本心を隠すことなく語り、神と真正面から対決することは、ユダヤ人が残した遺産であると書いています。『ユダヤ人とユダヤ教を知る』という本の中で、こう語っています。「人が神と議論をした最初の事例は、旧約聖書の特徴、また、ユダヤ教の一般的な特徴になりました。アブラハムの時代から何百年も経って、詩篇の筆者は、神に怒りをぶつけてこう叫んでいます。『起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください。なぜ御顔をお隠しになるのですか。私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。』(詩篇44:23~24。この個所以外に、神のなさることに疑問を持った預言者や義人の例として、ハバクク1:2とヨブ記の全体を参照のこと。)全能の神に自分の意見をぶつけるという態度は、神も人間と同じように責任を果たすべき存在であり、その責任を果たしていないときには批判されるべきであるという信念から生じています。このような伝統のもとで生きてきたエリ・ヴィーゼルは、こう言っています。『ユダヤ人は、神を愛したり、神と争ったりします。しかし、神を無視することはありません。』」

アブラハムもこのような態度で生きていたと思われます。神は、ソドムという邪悪な町を滅ぼそうとされていました。アブラハムは神に向かって、50人の正しい人がその町の中にいることがわかったらその町を滅ぼさないでください、と言いました。50人の正しい人は見つかりませんでしたが、アブラハムは、根気よく神を説得して、その人数を10人にまで減らしました。しかし10人さえ見つけられなかったとき、ソドムは滅ぼされました(創世記18:23~19:29)。

モーセの場合もそうでした。主は、次々に奇跡を起こしてイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒野では食べ物を与えてくださいました。しかし、モーセがシナイ山に登って神から十戒を受け取っているあいだに、イスラエルの民はエジプトの支配から自分たちを解放してくださったお方を捨てようとしていました。異教の人々のように金の子牛を作って自分たちのための偶像とし、豊穣を求める礼拝と称して性的放縦にふけりました。神は、モーセにおっしゃいました。「今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。」(出エジプト32:10)神は、もう一度最初からやり直して、モーセから大いなる国民を興そうとさえおっしゃいました。

モーセは、神に従いたくはありませんでした。彼は、イスラエルの民を救うために、 こう嘆願しました。「また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」(12節)神はこのモーセの願いを聞き入れて、イスラエルの民にわざわいを下すことを思い直されました(14節)。

アブラハムとモーセは、よいお手本です。私たちも、彼らのように、神に向かって自分の思いを率直に語ってもよいのです。神を恐れ、神を敬いながら、なお次のようにすることが許されています。

  • 愛する人をなぜまだ救いに入れてくださらないのか、と神に文句を言う。
  • 神が子どもの命を助けてくださらず召してしまわれたので、どれほど失望し怒っているかを正直に話す。
  • 長い間失業しているのに仕事が見つからないイライラを神にぶつける。
  • 不妊の悲しみや苦しみを神に訴える。

神は、私たちが激しい否定的な感情を持っていたとしても、それに圧倒されるお方ではありません。このお方には、人からとやかく言われるような落ち度は全くないからです。神は、私たちに正直になるように勧めておられます。自分を正直に見つめれば、自分の思いや感情が本当はどうなのかがわかります。自分の本音がはっきりわかれば、それに対処できるように助けてください、と神に祈り求めることもできます。

なぜ、神の御前で正直になることをためらうのでしょう。私たちは、家族や友人に対しても、否定的な思いを口にすることをはばかります。おそらく、あらゆる種類の論争を避けようとするのでしょう。あるいは、神に文句を言うことは、信仰がないからだと考えているのかもしれません。

私たちは、仲良くすることと、反対意見を提示しあって話し合うこととは両立しない、という世間の常識にとらわれています。仲良く和を保っていることが、人間関係がうまくいっていることだ、と考えます。しかし、その人を本当に気遣っているなら、お互いの間に波風が立つのを避けられないこともあります。関係が悪くなったりいざこざが起きたりする危険を承知で、面と向かって本音で話す勇気を持つなら、それはあらゆる種類の人間関係を強め、また深めていきます。これと同じことが神との関係においても言えます。ベテルで神と取っ組み合いをしたヤコブのように、私たちも時には神と取っ組み合いをすべきです。そうすることによって、神からの祝福にあずかることができます(創世記32:24~32)。

神が私たちのために望んでおられることを信じる。イエス・キリストを信じる人の生きる目的は、神とひとつになることのはずです。そのためには、神の御前で祈るとき、自分に正直にならなければなりません。自分が望んでいることが神の望んでおられることと一致しているのか、そして、神のみこころならどんなことでもしようという意志が自分にあるのか、さらに、神が、「こうしてほしい」と言われたら、それをかなえようとするのか、などについて自分の心を深く探らなければなりません。

どうすれば、神と「ひとつ」になれるのでしょう。言うまでもないことですが、私たちはすべてのことを神と同じように完全に理解することはできません。イエスは、弟子たちに向かって、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:10)と父なる神に祈りなさいと教えられました。私たちも、自分の生活の必要や家族や友人のために祈るとき、さらに、病気の回復や職探しや何らかの指針を求めて祈るとき、イエスのこの教えに従うなら、きっと神とひとつになれるでしょう。

イエスご自身も、死の数時間前、この教えどおりに行動されました。ゲツセマネの園で苦しみもだえて祈られ、いったんは十字架にかかることを避けたいと父なる神に祈られましたが、最後にこうお祈りになりました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)イエスは、十字架を目前にして、現実から目をそらさず、自分の正直な気持ちと懸命に闘われました。そして、父なる神にご自分を明け渡されました。ですから、父なる神とひとつになって、この試練を乗り越えて行かれたのです。

「みこころのとおりにしてください。」と祈ることに疑問を感じるかもしれません。 こう祈るなら、それまで「~してください。」と祈り求めていたことを、密かにあきらめたことにはならないでしょうか。また、「~してください。」という祈りが、神がかなえてくださるべき正しい祈りだ、と実は最初から思っていなかったということにならないでしょうか。それとも、私たちの取るに足らない願いごとで神の邪魔をしないようにしようと謙遜さを装ってはいますが、実は、祈りが答えられないときは、「結構ですよ。どうせ大したことではありませんから。」と言えるように体裁を取り繕っているだけではないでしょうか。もし、このような気持ちで祈っているとしたら、まったくのお門違いです。

神学者のヘルムート・ティーリケは、こう書いています。「『みこころのとおりにしてください。』という言葉が意味していることは、このようなことではありません。それは、『私の祈りがどのような意味を持っているのかを、あなたは私よりもよくご存知です。』という意味です(ローマ8:26)。『私が、空腹のままでいることを望んでいるのか、あるいは何かを食べたいと思っているのか、あなたは私の願いをよくご存知です。あなたが与えてくださるものが何であっても、私は、「主よ。そのとおりです。」(マタイ15:27)と言うでしょう。どうしてかと言えば、あらゆることで、あなたは、私に満足感を与えてくださるからです。そしてそれは、私の理解と願いを超えています。』」

私たちは、「みこころのとおりにしてください。」と祈るとき、神とひとつであることを選び取っています。イエスが弟子たちに向かって、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」とおっしゃいました。私たちも神に向かってそう祈っています(ヨハネ4:34)。主が、ゲツセマネの園で祈られた祈りを、私たちも祈っているのです。私たちにとって何が最善かと言えば、神が、食べ物や仕事、そして伴侶や子どもを与えてくださるか否かとは関係なしに、神のみこころがなることです。

しかし、もし私たちが自分の考えや感情に正直にならないなら、神と一体であるという確信は得られません。正直さは、失望を乗り越え、確信を持って祈るようになるために必要なものです。