あなたの旅
聖書のみことば:ヨハネ14:15-21
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。―ヨハネ14:18
私は1960年代という反抗的な時代に育ち、少年の頃は宗教に否定的でした。小さい頃から教会に行っていましたが、自分の信仰を持ったのは、大きな事故に遭った20代の前半でした。そしてイエスの愛を伝える人生を送り、それは正に人生の旅でした。
この不完全な世界を生き抜くことを「旅」と表現するのは、言い得ているでしょう。山や谷、川や平原、渋滞の高速道路、ひとりぼっちの寂しい道、上り坂、下り坂…。私たちは歩みます。そして、喜び、悲しみ、争い、喪失、心痛や孤独など、様々な体験を重ねます。私たちには先のことは見えませんから、あるがままを受け入れなければなりません。こんな方が良かった、あんな方が良かった、とは言えません。
しかし、キリストに従うなら、ひとり旅ではありません。聖書が語るように、神がともにおられないところは皆無です(詩139:7–12)。神は私たちを見放したり、見捨てたりされません(申31:6、ヘブ13:5)。イエスは聖霊をくださると約束され、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」と言われました(ヨハ14:18)。
人生の旅の途上で、試練であれ、チャンスであれ、どんなことに遭遇しても、私たちは大丈夫です。神が必ずともにいると約束してくださったのですから。
愛する主よ、私が進む道をご存じのあなたが、ともに歩んでくださることに感謝します。日々、あなたのご臨在と助け、そして知恵に頼りながら、生涯の歩みをつづけられるように助けてください。
信仰は、それがどこに導かれていくのか知らないが、 導き主がどんな方であるかを知っており、また愛している。 ―オズワルド・チェンバーズ著 「いと高き方のもとに」
助けを求めるとき
聖書のみことば:詩篇142
祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。―ピリピ4:6
信仰を持って長くたちますが、まだ祈りを完全には理解していません。私にとって、祈りは神秘に満ちています。しかし、ひとつ分かっていることは、切羽詰ったとき、祈りは自然に心の奥底から湧き上がり、口をついて出るということです。
気が動転したとき、怖いと感じたとき、もう限界だと思ったとき、自分の小さな幸せが奪われそうになったとき、または大きなチャレンジを受けたときなど、私たちは反射的に、そして無意識に祈ります。そんなときは普通、「主よ、助けてください!」と叫び求めるのです。
神学者のユージーン・ピーターソンは「祈りの言葉は、困難な試練の中で錬られる。自分の力ではどうにもならず助けを求めるとき、自分の置かれた状況から抜け出したいと思うとき、自分が嫌で変わりたいと思うとき、私たちは飾らない素朴な言葉を使い、この言葉が祈りの基礎になる」と記しました。
祈りは困った出来事から始まり、続いていきます。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ、常に何らかの問題を抱えているからです。祈りは特別な準備を必要とせず、正しい用語というものもありません。また、定められた作法もありません。祈りは、私たちが必要に迫られるところから始まり、やがて私たちの習慣になっていきます、私たちは、良きにつけ、悪しきにつけ、人生のあらゆることに対して祈るようになります(ピリ4:6)。
どんなことでも神に祈ることができるのは、何と素晴らしい特権でしょう。
神の助けは祈ればそこにある。
道を選ぶ
聖書のみことば:マタイ7:13-14
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。―マタイ7:14
コロラド州の美しい秋の山景色の中、馬に乗った若者が、どの道を進むか考えている写真があります。それはロバート・フロストの「歩む者のない道」という詩を思い起させます。詩人は、目の前のふたつの道を思案しています。両方とも好ましい雰囲気ですが、今の地点に戻ることはおそらくないので、どちらかを選ばなければなりません。彼は言います。「森の中に分岐した道があった。私は選んだ人が少なそうに見える道を選び、それは後に、大きな違いをもたらした。」
イエスの山上の垂訓を読むと(マタ5-7章)、イエスは「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(7:13-14)と聞いていた人たちに言われたと分かります。
選択の時は、人生の旅路に度々訪れます。魅力的に見える道はいくつもありますが、ただひとつの道がいのちに至る道です。イエスは、みんなについて行くのではなく、神のみことばに従う弟子の道を歩みなさい、と命じられます。
選択肢を思案するとき、いのちに至る道、神の道に従っていく知恵と勇気が与えられますように。それは、私たち、家族や友人に大きな違いをもたらします。
主よ、今日を歩む中で、いのちに至る狭い道を見定める目と、そこに進む勇気を与えてください。
イエスとともにいのちに至る道を歩むことを選択しよう。
いっしょに歩もう
聖書のみことば:ヘブル10:19-25
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。—ヘブル10:24
ディズニーランドの人気アトラクションの列に並んでいたとき、ほとんどの人が、長い待ち時間でも不平を言わず、笑顔で談笑していると気づきました。行列で待っていることの何がそんなに楽しいのでしょう。疑問を解く鍵は、ここにひとりで来ている人がほとんどいないことです。彼らは、家族や友だち、グループやカップルで、同じ体験を共有しています。だから、ひとりで列に並ぶのとは大違いなのです。
信仰生活もまた、ひとりではなく、他の人と仲間になって歩むべきです。ヘブル人への手紙10章19~25節は次のように語り、共同体で生きていきなさいと、イエスを信じる人たちに強く勧めます。「私たちは…全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、…動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。…いっしょに集まることをやめたりしないで、…ますますそうしようではありませんか」(22-25節)。
自分にとって最も困難な日々でさえ、信仰の仲間が共に歩んでくれるなら、それは信仰の旅路で有意義な日々です。ひとりぼっちで人生と戦わないでください。いっしょに歩んでいきましょう。
主よ。信仰と励ましの道を他の人たちといっしょに歩むことによって、神の召しに応えていくことができますように、どうか私たちを助けてください。
キリストの内にある人生は、共有される経験であるべきだ。
重荷を捨てよう
聖書のみことば:へブル12:1-5
私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。—ヘブル12:1
海軍の歴史にとって暗い出来事が、1628年8月10日に起こりました。その日、スウェーデン王国の軍艦ヴァーサ号が処女航海に出航しました。竣工までに2年を要し、豪華な内装と64の大砲を持つ軍艦は、スウェーデン海軍の誇りでした。しかし、出航してまもなく沈没してしまったのです。何が起こったのでしょう。実は、船が重すぎて航行に適さなくなっていました。過剰な重量が、ヴァーサ号を海の底に沈めてしまいました。
クリスチャンの人生も、余分な荷物によって重くて沈んでしまうことがあります。ヘブル人への手紙は、「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と語り、私たちの信仰の歩みを励ましてくれます(ヘブル12:1-2)。
私たちも豪華な船のように、表向きはりっぱに見えるかもしれません。しかし、もし罪という重荷が内側にあるなら、私たちの耐性は、弱まってしまいます。それには治療法があります。神の導きと聖霊の御力に頼ることによって、私たちの重荷は軽くなり、耐える力も湧き上がってきます。
赦しと恵みは、信仰の旅人には、どんなときにも与えられます。
すべきことをやりぬき、すべきでないことは絶対にしない。それが耐えるということだ。
十分に整えられる
聖書のみことば:Ⅱテモテ3:14-17
聖書はすべて、神の霊感によるもので……それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。—Ⅱテモテ3:16-17
医療用メスの開発者でスイス人のカール・エルズナーは、何年もかけて軍仕様のナイフを制作しました。19世紀のことです。このスイスアーミーナイフは、その鋭い切れ味と多機能性で今日でも多くの人に知られています。小刃、金属のこぎり、はさみ、ルーペ、缶切、ドライバー、定規、ボールペンなど、多彩なツールがセットされていて、野外でキャンプをする人たちに、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれるのです。
私たちクリスチャンにも、罪にまみれたこの世を正しく生き抜くために、「これがあれば大丈夫」と感じさせてくれる何かが必要です。そのために、神はご自身のみことばをくださいました。パウロはこう語っています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモ3:16-17)。
「整えられ」ると訳されている単語は、「完全に適応させる」または「きちんと取り付ける」という意味です。聖書は次のようにして私たちを整えてくれます。第一に、「教義」という霊的真理が与えられます。次に、私たちの不完全な部分を示し「戒め」てくれます。さらに、私たちが罪を犯したとき、それを示して「正して」くれます。最後に、正しい人生を生きるために「指導」してくれます。
神のみことばほど価値あるツールはありません。みことばは、私たちが信仰者として歩み続け、霊的な成長を遂げるために不可欠なものです。
聖書には、健全なたましいに必要な栄養素がすべて含まれている。
賢明な援助
赤信号で車を止めると「食べ物を買うお金がありません。少しでもめぐんでください」と書いた紙を持つ人が立っていました。私は、ため息をつきました。困っている人を見過ごしてよいのでしょうか。