後々まで語り草になった話ですが、英国のタイムズ紙が19世紀の終わりに「世の中、何が問題なのだろう」と読者に質問しました。実際、枚挙にいとまがないといったところでしょう。タイムズ紙はたくさんの回答を受け取りましたが、特に卓越した簡潔な答えがありました。作家であり、詩人、哲学者でもあったG.K.チェスタトンの回答で、「私です」の一言でした。責任転嫁が世の常ですから、一服の清涼剤です。

この話の真偽は今でも論議の的ですが、その回答は真理そのものです。チェスタトンのずっと昔、パウロという名の使徒がいました。自分の行状は常に模範的とは言えず「以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」だったと過去のあやまちを告白しました(Ⅰテモ1:13)。そして、イエスが来られたのは「罪人」を救うためだと述べた後、自分こそが、その「罪人のかしら」だと語りました(15節)。チェスタトン的な自覚です。使徒パウロは、時代を超えて、世の中の何が問題なのかを、正しく知っていました。さらに、間違いを正す唯一の望み、すなわち「私たちの主の恵み」(参:14節)を知っていました。何という驚きでしょう。この不変の真理が、私たちの目を救い主キリストの愛の光に向かわせてくれます。