友人のビルが知り合いのジェラルドに、神が備えられた救いの道について語りました。ジェラルドは長い間、信仰とは無縁で、自分本位な生活をしてきたそうですが、己の罪を涙ながらに悔い改め、イエスに人生をささげました。今の気持ちは、と尋ねると「洗われた感じ」と答えました。

これは、イエスの十字架の犠牲を信じて手にする救いの本質です。使徒パウロは神に対する不服従の例を挙げた後に「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」(Ⅰコリ6:11)と述べています。「洗われ」、「聖なる者とされ」、「義と認められた」とは、罪を赦されて、神との正しい関係が築かれたということです。また、救いという不思議なできごとは、私たちが良いことをしたからではなく、神の「あわれみのゆえに……新生と更新との洗い」(テト3:5)によるのです。罪は人を神から引き離しますが、イエスの贖いを信じるなら罪咎(つみとが)は洗い流されます。私たちは新しくされ(Ⅱコリ5:17)、神のみもとに近づき(エペ2:18)、きよめられます(Ⅰヨハ1:7)。