ジョージア州アトランタの駅で、ワイシャツにフォーマルなパンツ姿の若い男性がベンチに座り、ネクタイを結ぼうと悪戦苦闘していました。初老の女性がその様子を見て、夫に手伝うように促しました。高齢の男性が、前かがみになって青年を助けていると、通りがかりの人が3人の様子を写真に撮りました。この写真がネットで拡散されると、多くの人が親切についてコメントしました。

クリスチャンにとって親切は、神が私たちのような人間に示してくださった自己犠牲的な配慮を反映しています。親切とは、神の愛の表れであり、神がキリスト者に望まれる「互いに愛し合う」という生き方です(Ⅰヨハ3:11)。使徒ヨハネは、兄弟を憎むのは人殺しと同じだと語り(15節)、愛するという行為の模範は、イエスの行動だと教えました(16節)。

仰々しい自己犠牲を求められているのではありません。無償の愛とは、人のニーズを自分のそれ以上に顧みることで、神の御姿を映す全ての人に価値があるという真実を、公然と表すことです。日常の一こまで他人の必要に気付いて自分にできることを喜んでするなら、それは無私の行為です。自分のことばかりでなく、やらなければならないからではなく、ちょっとお節介かしらと思っても、助けたり与えたりするなら、私たちはイエスのように愛しています。