恵みの賜物 10選 2017
これらのデボーション・メッセージは、皆さまの信仰の歩みのお手伝いをさせていただきます。私たちに対する神の愛、そしてその愛のゆえに与えられた恵みの贈り物のことをよりよく知っていただくために選ばれたメッセージです。 このクリスマス、皆さまが本当の喜びを見つけることができますように。
大きな愛
受難週の直前、フランス南西部のスーパーにテロリストが押し入り、2人を殺害し、人質を取って籠城しました。その後、皆を解放しましたが、1人の女性だけは人間の盾に残しました。治安当局のアルノー・ベルトラーメは、人質の身代わりとなり、犯人ともみ合い負傷して亡くなりました。
和解の関係
子どもの頃、妹とよく姉妹(きょうだい)げんかをしましたが、その一つをはっきり覚えています。互いにののしり合う中で、妹は当時の私が赦せないと思うような発言をしました。私たちのいがみ合う様子を見た祖母は、互いを愛し合う責任があると諭しました。「神様が下さったたった2人の姉妹よ、もう少し優しくしなくてはいけないでしょ」と言いました。相手に対する愛と思いやりを下さいと2人で祈ったところ、自分がいかに相手を傷つけたかが分かり、赦し合うことができました。
ずっと険しい山道
詩人で作家のクリスティーナ・ロセッティの人生は厳しいものでした。うつや多くの病気に悩まされ、3度も婚約を破棄され、がんで亡くなりました。
賛美の涙
母の最後の4カ月間をホスピスで介護して見送ったとき、そうできたことを神に感謝し、悲しみからの癒やしを祈りました。感情がもつれて賛美できない時もありましたが、母が息を引き取ると、号泣しながらも「ハレルヤ」とつぶやきました。こんな状況で賛美だなんてと罪意識もありましたが、後年、詩篇30篇を精読して教えられました。
デイリーブレッド読者アンケート
「デイリーブレッド」と聖書についてのアンケートです。
基本的にクリック(タップ)のみで回答可能、所要時間は約3分です。
回答していただいた方に限定で、特別オファーとして弊社の新刊「第二の人生を祝う」をプレゼントいたします(A5版 全フルカラー 88頁)。
話しかける神
知らない番号からの電話を、通常どおり留守番電話に切り替わるままにせず、出てしまいました。すると、電話の主は聖書の一節を伝えてもよいかと丁寧に尋ねました。そして、黙示録21章3-5節を読んで、神があなたの目から涙をことごとくぬぐってくださると言い、イエスが私たちの保証であり希望だと話しました。私もイエスを信じていると伝えると、彼は伝道目的ではないので、一緒に祈ろうと言いました。そして、神の力と励ましが私の上にあるように祈ってくれました。
たとえ話(ルカの福音書15章11~31節)
もうひとつの美しい赦しの物語は、イエスが語られた放蕩息子の話です。ここには以下のとおりの証拠が見られます。
悔い改めた心。
放蕩息子は、我に返り父の家に帰ろうと決心します。彼は心から反省し悔い改めていました。悔い改めとは、心砕かれて人生の歩みの方向性を変えようとすることです。それには、次のような特徴があります。
● 人間関係の回復を渇望する。
彼は罪の生活の中で得られるもの以外を心から求めました。彼は家に帰りたいと思ったのです(16節)。
● 謙ってあやまる。
彼は「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」と述べて、神と親の愛に背いたことを自分から認めました(18-19節)。
● あわれみを請う。
彼は「あなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言って息子の権利を返してもらおうとはせず、父のあわれみにすがって雇い人のひとりにしてもらいたいと願いました(21節)。
赦す心。
純真な悔い改めに応えて、思いがけなく寛大な赦しが与えられました。この物語の父親の姿は、神の赦しを象徴しています。それには、次のような特徴があります。
● 希望を失わずに待つ。
この父親は、息子が悔い改めて帰宅し、もとの親子関係が回復されるという望みを決して捨てませんでした。彼は忍耐して祈り、息子の姿が地平線上に見える日を待ち望んでいました(20節)。よい結果を待ち望む熱い思いが冷え切ってしまうことはありませんでした。
● 勇敢に愛する。
当時の文化では、この息子は地べたにひれ伏して謝るべきでした。しかし、この父親は世の中の慣習に固執することなく、謙遜にも自分の立場を放棄して、押さえ切れない愛と喜びを余すことなく示して、走って行くと息子を抱きしめました(20節)。
● あわれんで赦す。
父親は、息子の心からの改心を察したので、喜んで彼を赦し、もとどおりの息子の地位に復権させました。前代未聞の出来ごとでした。
● 悔い改めを祝う。
父は息子の帰宅を祝うために祝宴を催しました。親子関係にひびを入れ壊してしまう方向に走っていた息子が、立ち直ったので、ふたりの関係は回復され活力を取り戻しました(23-24節)。
赦さない心。
この青年の兄(イエスのたとえ話を聴いていたパリサイ人を象徴している)は、頑固に赦さないことを選びました。この態度には、次のような特徴があります。
● かたくなである。
彼は、愚かな弟に息子の地位を回復させることは、まったく考慮の余地がないと考えていました。弟に優しい気持ちを持てないのは正当だと感じていました。あれほど傷つけられたのに、親子関係を回復したいと父が願っていると知り、激怒してしまいました(28節)。
● 復讐に固執する。
彼の焦点は、弟のあやまちを罰することばかりに向けられていたので、彼の心の変化に目を留めることができませんでした。彼は弟に自業自得を思い知らせたかったのです。彼にはあわれむ心がなく、和解の望みもありませんでした(28節)。
● 祝うことを高慢に拒絶する。
兄は弟とも父親とも冷たい関係になりました(28節)。彼は、自分の気持ちばかりに気を取られていたので、喜び祝う機会を逃してしまいました。彼は、お父さんがどれほど愛情深く、また息子を待ちわびていたかに気づきませんでした。それどころか、ひどい態度で自分だけが正当化している怒りをあらわにし、自分の正しさを誇示して、自分のしていることが父親をどれほど悲しませているか、まったく気づきませんでした。彼の行動は、弟のあやまちと同じぐらい親子関係を冷たくしてしまったのです。赦すことを拒絶するならば、それは、頑固で反抗的な心の表れです。神の井戸から赦しの水を未だ十分にいただいていない証拠です(ルカ7:47)。
自分を傷つけた人を愛せないのは、神にどれほど愛されてきたか、まだ分かっていないということを意味しています。使徒ペテロは、第二の手紙の1章に、信仰から始まる7つの美徳を掲げていますが、それは「…には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(第二ペテロ1:5-7)と頂点を極めていきます。そして、「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(8-9節)と述べています。
ケーススタディ(創世記37~50章)
ヨセフは、父親が年老いてから生まれた息子でした。兄が10人と弟がひとり、姉が数人いました。若い頃の人生は困難続きでした。父親が大っぴらにえこひいきをするために、兄たちから嫌われていたのです。兄たちは、ヨセフが17歳になったとき、彼を殺そうと相談しました。しかし、思いとどまって、干上がった水溜めの穴に放り込んでおき、商いのためにエジプトに下っていく隊商に売り飛ばしたのです。そして、父親には野獣に殺されたと報告しました。
ヨセフは、無理やりエジプトに連れていかれると、パロの宮廷を守る侍従長に買い取られました。そして、主人の妻を辱めようとしたと無実の罪を着せられ、投獄されただけでなく、そこから助け出すことができた人からも忘れられてしまいました。ヨセフが、憤りや恨みや復讐心に燃えていたとしても、当然だと言えるでしょう。
この物語で驚くことは、このような悲劇に見舞われながらも、ヨセフは30歳の誕生日を迎える頃、エジプトの宰相に任命されたということです。また、それ以上の驚きは、ヨセフの人生が、聖書に描かれた「赦し」の絶好の教材だという点です。彼は最終的に兄たちを赦し、兄ともどもイスラエルの12部族の族長になりました。
ヨセフの物語は、赦しのプロセスの示唆に富んでいます。その中でも最も重要な点は、自分が幸せになるか不幸になるかの鍵を握っているのは、自分に害を与えた相手ではないと気づくなら、私たちは赦すことができるという点です。
ヨセフの赦しのプロセスは、ゆっくりと検証してみる価値があります。創世記42~50章には、ヨセフの兄たちが過去のあやまちと折り合いをつけ、ヨセフもけじめをつけた様子が詳しく綴られています。赦し赦されることは、一夜にして起きるわけではありません。自らの悪事は、兄たちの心に深い罪責感を刻み、ヨセフの心に辛い記憶を残しました。
和解のプロセスは、神によって始められました。飢饉によって、父ヤコブは、息子たちをエジプトに送って食料を調達しなくてはならなくなったからです。彼らは何も知らないまま、エジプトの宰相の前に引き出されました。目の前にいるのが、自分たちの弟であるとは、夢にも思わなかったのです。ヨセフは兄たちに気づきましたが、自分の素性を隠していました。そればかりか、彼らをスパイだと非難して監禁し、ある企てをして彼らの心を苦しめました。
あるとき、ヨセフは兄たちが「われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。」と言い合って昔の罪を悔いているのを聞いたので、その場を離れて涙しました(創世記42:21-24)。
過去にけじめをつけることは、簡単ではありません。ヨセフ自身も、自分の心の痛みに百パーセント向き合うことができませんでした。それで、恐れる兄たちに自らの素性を明かしながらも、彼らのおかげで被った人生の痛手を過小に評価するかのように「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)と語りかけました。
しかし、中途半端ななぐさめは、過去の傷を癒してくれません。ですから、父親が死ぬと兄たちはヨセフが復讐するのではないかと恐れました。そして再度、赦しを嘆願しました。ヨセフもやっと過去に完全にけじめをつけるときが来たと悟りました。そして、彼らの悪を悪と言い、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(創世記50:20)と語りました。聖書は、ヨセフが兄たちを慰め、優しくしたと伝えています。
赦しのプロセスは、とうとう完結しました。兄弟の関係が回復したのはすばらしいことでした。ヨセフは兄たちの罪を完全に認識した上で、完全に赦すことができました。彼は自分の人生の必要や幸せの鍵が兄たちの手の中にあるのではないと分かっていたので、彼らを赦すことができました。自分の人生は、神の御手の中にあると分かっていたからです。