シンディは非営利団体に転職し、違いを生む仕事に関われると興奮していました。しかし、同僚たちの熱意の無さやパフォーマンスの低さに失望しました。遠目には素晴らしくても、近くで見るとがっかりでした。

いちじくの木の問題も同じでした(マコ11:13)。いちじくのシーズンはまだでしたが、茂った葉から、早生の実がありそうに見えました。しかし、ありません。イエスは失望して「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」(14節)と、その木を呪われました。翌朝、木は完全に枯れていました(20節)。

40日間断食したことがあったのですから、イエスは、絶食に処する術をご存じでした。あの呪いは、空腹のゆえでなく、教訓でした。その木は、真の宗教を装っていても、本質を見失ってしまったイスラエルの姿でした。彼らは神の御子、救い主を殺そうとしていました。これほど不毛なことがあるでしょうか。

私たちも遠目には良く見えるかもしれません。しかし、イエスは近づいて、御霊の実を探されます。華々しい実である必要はありませんが、超自然的でなくてはなりません。例えば、困難な状況下での愛、喜び、平安といったように(ガラ5:22)。そんなときでさえ、御霊に頼るなら、イエスのために実を結ぶことができます。