友人のルーは、ブルガリアのある村で高齢の女性から「あなたのために50年間、祈ってきました」と言われ、深い感謝のまなざしで彼女を見つめました。彼の父は、10代になるまでその村で暮らしました。彼女は隣の家に住むキリスト者で、ルーの誕生の知らせを聞くやいなや、彼のために祈り始めたと言います。半世紀以上が経ち、ルーは仕事でその村に来ました。そして自分の信仰について話したところ、彼女が近づいて来たのです。彼は、自分の救いと彼女の忍耐強い祈りについて思いを巡らせました。信仰を持ったのは、30歳近くになってからだったのです。

祈りの効果について、この世で完全に知ることはできません。しかし聖書は「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」(コロ4:2)と助言します。使徒パウロは、コロサイという小さな町のキリスト者にそう語ると同時に、自分のためにも祈ってほしいと述べました。行く所々で神がみことばのために「門を開いて」くださるためにです(3節)。

私たちは時に、自分には祈りの賜物がないと思います。しかし、聖書に記されている霊の賜物の中に「祈り」はありません。その理由は、もしかすると、私たち一人一人が真摯(しんし)に祈ることを神が望んでおられるからかもしれません。私たちは、祈りによって、神にしかできないことを見るでしょう。